溺愛音感
一方的に早口で指示をまくし立てたマキくんは、わたしの返事も聞かずに電話を切ってしまった。
(ま、散歩だと思えばいいか)
溜息をひとつ吐き、いい気分転換になるはずだと気持ちを切り替える。
今日に限らず、バイトの予定は今週末の土曜日、レセプショニストの仕事以外は入っていない。
マキくんは、わたしが熱を出して寝込んだ次の日には、派遣会社へしばらく仕事の紹介不要と連絡していた。
勝手な真似をされて、腹を立てたいところだったけれど、ヴァイオリンが弾ける状態を保つことは当然「リクエスト」に含まれていると言われては、反論できなかった。
フルメイクをする時間の余裕はないものの、一応マスカラと口紅だけはして、マキくんのスマホを鞄に放り込み、部屋を出る。
タクシーを使おうかと思ったが、送られてきた地図を見る限り、車を使った方が時間がかかりそうだ。
(電車にしよ)
通勤ラッシュも過ぎて、のんびりした空気が漂う電車に乗って、ひと駅。
高層ビルが立ち並ぶ駅の北側――オフィス街への出口を利用するのは初めてだったが、お気楽な恰好で来たことを後悔した。
(うぅ……やっぱり、めちゃくちゃ場違いかも……)
名だたる企業名が掲げられたビルが林立し、行き交う人たちのほとんどがパリッとしたビジネススーツに身を包んでいる。
一方、わたしの服装はと言えば、マキくんが選んだマキシワンピース。
白いシフォンをキャンバスにして絵画のようにきれいな花柄が描かれた、おそらく一点もの。
ビジネスの場にはそぐわないリラックスモード全開だ。
受付で名前を言ってスマホを渡すだけなのだから、わざわざ着替える必要はないと思ったのだが……完全に、失敗した。
(ていうか、オフィスに相応しいコーディネートができる服も持ってないんだけど)
ウォークインクローゼットの一角を占めるマキくんチョイスの服たちは、ガーリッシュなナチュラル系。お値段は、着るだけで緊張してしまうセレブ価格。
汚れが目立たない、洗濯が楽、安い、といった基準でわたしが選んだ服たちは、マキくんによってダメ出しされ、処分されていた。