溺愛音感


「アイツは、婚約者であるハナを裏切った。だが、ハナのヴァイオリンに惚れ込んでいたことは、嘘じゃない。それは、誰よりもハナが知っているはずだ。だから……ハナは、アイツのことを好きになったんだろう?」


優しい声で諭されて、堪えていたものが言葉と一緒に溢れ出た。


「でも……和樹は、勝手だよっ! 途中で捨てるくらいなら、最初から拾わなければいいのに。追い出すくらいなら、最初から招き入れたりしなければいいのにっ! 中途半端な優しさなんて、いらない。いつか消える夢なら、見なくていい。あの時、プロになんかならなければよかった。ずっと路上で弾いていたら、そしたら、ヴァイオリンを弾くのが怖くなったりしなかった。帰る場所がないなんて、不安になったりしなかった。どこでも弾けて、どこへでも行けて、ずっと自由なままでいられたのに……」


泣きたくなんかないのに、止まらない涙が抱きしめるマキくんのシャツを濡らしていく。

甘えるのは、苦手だった。
欲しいものを我慢して、欲しくないと言うのにも、慣れている。


でも、俺様な飼い主は、いつだってわたしが欲しいものを知っている。


「ハナ。そんなに怖がらなくてもいいんだ。ハナの帰る家はここだ。ヴァイオリンだって、ほかの場所で弾けなくとも、俺の専属として、ここでずっと弾いていればいい」

「でも、ずっと、って……いつまで? マキくんが飽きるまで? どうせ飽きたら追い出されるんでしょ?」

「ハナが望む限り、『ずっと』だ。一度拾った犬は、最後まで面倒を見るのが、飼い主の義務であり、責任だ」

「でも、わたし、犬じゃない……」

「人間でも、一緒だ」

「で、も……」

「ハナ。そんなに俺の言葉が信じられないなら、永遠の誓いを立てようか……」


疑い深いわたしにしびれを切らしたマキくんが、妙なことを言い出した。


「えいえんの………ちかい?」


長い指でくいっと顎を持ち上げられ、見上げた先にはうっとり見惚れてしまいそうな甘い笑みがある。

そして、きゅっと口角の上がった唇は、とんでもない言葉を紡いだ。


「結婚すればいい」

「え……」


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