溺愛音感
激しい怒りのためか、声を押し殺すようにして呟く彼女の瞳は潤んでいた。
「いい加減にしろ、中村! おまえはあくまで秘書だ。柾のプライベートにまで、口を出す権利はない。帰るぞ。立見、あとはよろしく頼む」
雪柳さんは、大きな手で中村さんの腕を掴むと有無を言わさず、引きずるようにして玄関へ向かおうとした。
「ゆ、雪柳部長っ! 嫌です、わたしはまだっ……」
足を踏ん張り、逆らおうとする彼女に、雪柳さんは容赦ない言葉で指摘する。
「柾は、おまえに傍にいてほしいとは思っていない。おまえのことを一度でもこの部屋に通したことがあるか? ないだろう? 今夜は、不測の事態だったから、俺の一存で連れて来ただけだ。だから、おまえがこの部屋に入ったことは、柾には黙っておく。クビになりたくなければ、おまえも黙っておけ」
「で、もっ……」
「柾は、秘書を恋愛対象として見ていないし、おまえに秘書以上の存在になってほしいとも思っていない。ハナ、柾を頼んだぞ」
ほどなくして玄関のドアが閉まる音がし、すすり泣く彼女の声が消えて、彼らが立ち去ったことを知る。
「やれやれ……。ハナ、茶が飲みたいんだが?」
立見さんにのんびりした口調で訊ねられ、我に返った。
「は、はいっ」
料理に自信はないが、お茶くらいは淹れられる。
電気ケトルに水をセットして、急須と湯呑を用意し、マキくんが買ってくれた玉露の葉を入れた容器を棚から取り出す。
お茶うけは、わたしイチオシの甘辛ぬれおかきだ。
ソファーに座ってスマホを弄っていた立見さんは、湯呑とおかきを見るなり嬉しそうに笑った。
「お、緑茶にぬれおかきか! ハナは和ものが好きなのか?」
「和ものというより、おせんべいが好きなんです」
「それでか! 柾が、学会で出かけることがあったら、ご当地せんべいを買って来いと言ってたのは……」
「え。マキくん、そんなこと頼んでたんですか?」
「ああ。よっぽどハナの喜ぶ顔が見たかったんだろうな。今回、柾が無理をして倒れたのは、休暇を取るために仕事を詰め込んだせいもあるだろうが……たぶん、いろいろ足りなかったんだろう」
「睡眠とか、栄養とか……?」
疲労の原因と思われる、彼に欠乏していたはずのものを挙げてみたが、立見さんは苦笑して首を振った。
「足りなかったのは、ハナだ」