溺愛音感
廊下を奥へと進む女帝は、わたしの疑問をスルーして、突き当りのドアを開ける。
フルコンサートサイズのピアノが二台ある練習部屋には、楽譜が散乱していた。
「散らかってるけれど、気にしないで。いつも来てくれているお手伝いさんが、風邪気味だったから途中で切り上げて帰ってもらったのよ」
女帝は、家事の能力が完全に欠如している(ピアノを弾くのに必要ではない能力を磨くのは時間の無駄と豪語している)ので、料理・洗濯・掃除は通いのお手伝いさんにすべて任せっきり。
プロの手で整えられた豪邸には、この部屋を除けば生活感がまるでない。
住まわせてもらっていた時も「家」という感じがせず、ホテルやモデルルームで暮らしているような感覚が拭えなかった。
「さて……」
ピアノの前に座った女帝は、わたしが調弦するのも待たずに弾き始めようとして「あ」と声を上げる。
「あ、そうそう出演依頼を受ける条件だけど……ハナとわたしでコンチェルト二つのプログラムを組むなら、受けてもいいと言うつもりよ」
「は?」
耳を疑う発言に驚き、危うく調弦の最中に弦をぶっちぎりそうになった。
「コンクールへの応募を検討しているんでしょう? 受賞の経歴を引っ提げて、母娘で共演となれば、話題性もばっちり。コンチェルト二つに、シンフォニー一つ。贅沢なプログラムを組めば、チケットの値段もいつもより多少上げていいと思うし。わたしはノーギャラで引き受けるつもりだから、オケの活動資金も潤うわ」
「……どう、して、あの、どうしてコンクールのことっ……」
音羽さんが、かなり真面目にN市民交響楽団の活動を後押しするつもりなのは嬉しいが、わたしがコンクールの話を知っていたことに驚かされた。
「柾さんから、ハナがそのうち相談に来るかもしれないと連絡をもらったのよ。でも、ツアーも入ってるし、のんびり待ってる暇はないから呼びつけたの」
(さすが女帝……どこまでも自分の予定が優先……。それにしても、マキくん。根回ししすぎだよ……)
「まずはヴァイオリンを聴かせなさい。弾けないことにはどうしようもないんだから。話はそれからよ」
女帝が告げた曲名は、ブルッフの『 ロマンス Op. 85』 。
寄り添うというよりはこちらを煽るような伴奏に負けじと必死に食らいつくこと約十分。
弾き終えた時には、魂を抜かれたかのごとく疲れ切っていた。
(ぜんぜんロマンスじゃなかった……音羽さん、伴奏向いてないよぅ……)
それでも、本人は満足したらしい。
「ま、人前で弾けるようになったのは大きな進歩だし、演奏自体も活動を休止した頃よりは、かなりマシね」
「それは……どうも」
「この調子なら、コンクールに挑戦してみてもいいと思うわよ。いい線行くんじゃないかしらね? でも、」