溺愛音感
あっさり応募すればいいと言った女帝は、わたしが考えてもみなかったことを指摘した。
「コンクールに挑戦するということは、柾さんとのお見合い、結婚はナシということね?」
「えっ」
「いつ結婚できるのかもわからない。結婚しても夫婦らしい生活ができないのなら、ご縁がなかったということでお断りするのは当然でしょう? こんな好条件の相手とは、二度と巡り会えないかもしれないけれど」
最近、すっかり忘れていたけれど、そもそも見合いは破談にするつもりで。
破談にするということは、当然結婚もないわけで。
願ったり叶ったりの展開だった。
なのに、少しも嬉しくなかった。
「コンクールに応募するなら、ちゃんとしたレッスンを受けたほうがいいわ。できることなら、日本ではなくあちらで。ハナの場合、日本語ではコミュニケーションに齟齬をきたす可能性があるもの」
女帝は、どうせなら、この機会にわたしに足りないものも補えと言う。
きちんと音楽の勉強をした人ならば、楽典、音楽史など、普通は最低限身についているはずのことも、わたしは勉強したことがなかった。
試験ではないから、コンクールに応募するために必要なものではないけれど、演奏の幅を広げるにはないよりあった方がいい知識ではある。
「それに……活動拠点は、当分欧州にすべきでしょうね。ファイナリストになれたなら、演奏機会を得られる可能性は高いし、オーケストラの数、コンサートの数が日本とは段ちがいに多いもの。もちろん、欧州に限らず、声をかけてくれるところがあれば、どこへでも行くくらいの覚悟を持たないと成功できない。移動を繰り返す生活になるわ。一度経験しているんだから、わかっているわよね? 相手も忙しい人ならば、すれ違うどころか、まったく会えないだろうってこと」
彼女の予測は、想像の産物なんかではない。
ほぼ百パーセントの確率で実現するであろう未来だ。
「ハナが、あのロクデナシの元婚約者と付き合っていられたのは、例外。それが彼の仕事だったからよ」
和樹はエージェントで、わたしの担当だった。
四六時中一緒にいるのは、もしかしたらやや例外だったのかもしれないが、仕事の一環ではある。
でも、マキくんはちがう。
彼は、『KOKONOE』という大企業の社長で、プライベートよりも仕事を優先しなくてはならない立場にある。
いまは、わたしが暇だから彼の生活に合わせられるが、もし演奏活動を再開すれば、それは不可能だ。