溺愛音感

そんな当たり前のことに、いまさら気付き、茫然と立ちつくす。
音羽さんは、呆れ顔で溜息を吐いた。


「そんなことすら考えられないくらい、ハナは柾さんといるのが当たり前になってしまったのね」


そのとおりだった。

マキくんがいない生活なんて、考えられない。

そして、ヴァイオリンを弾かない人生も、考えられない。


「音羽さん……わ、たし……どっちも大事で……選ぶなんて、できない」


どちらを選んでも、後悔する。
でも、どちらも手にすることはできそうもない。


「どう、どうし……よ……」


何が心の奥に引っかかっていたのか、ようやく自覚した。

演奏活動を再開させるために踏み出せば、マキくんと過ごす時間が、せっかく築いた彼との関係が失われてしまう。

本能的にそれがわかっていたから、思い切れなかったのだ。


「ほら」


音羽さんは、おしゃれなガラステーブルの下、楽譜の間に挟まれてぺしゃんこになっていたボックスティッシュを差し出す。


「ずみばぜん……」

「〇セレブじゃなくて悪いわね」

「いえ……」

「結局……血は争えないってことなのかしらね」

「……?」

「あの頃のわたしは、安易な道を……楽になれる道を選んでしまった」


世の中で、思い通りにならないことなど一つもなさそうな女帝は、壁にかけられた家族写真――父と彼女と幼いわたしが仲良くくっ付いて、幸せそうな笑顔を向ける写真を見つめて呟いた。


「ピアノより、あなたたちを優先できないことに罪悪感を抱いて。ピアノより、あなたたちとの生活を優先させたくなる弱い自分に苛立って。そのままでいいと言ってくれたあの人の言葉に耳を塞いで。考え、悩み続けることから逃げ出した」

「後悔……してるの?」

「いいえ。自分で選んだのだから、後悔する資格はないわ。ただ……自分の心と、もっと真摯に向き合うべきだったと思っている。余計なものをすべて取り払ったら、最後に自分の心に残るものは何なのか。それをきちんと見定めるべきだったと思っているわ」


最後に、彼女の心に残ったものは何だったのか。

その答えは、父の最期を看取るために、コンサートツアーを一時中断させた彼女の行動に示されていると思った。

プロとして許されない行動だ、傲慢な女帝だとマスコミや業界のさまざまな人たちから批判されても、一切の言い訳をしなかった。

その一方で、ファンに対しては、振り替え公演で事情を説明し、深々と頭を下げたと聞いている。


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