溺愛音感

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女帝の豪邸に予定より長居してしまったため、ホールに到着したのはシフトインすべき時間の三分前。
慌ただしく着替え、一番最後にミーティングルームへ滑り込む。
マネージャーに睨まれたものの、叱責は受けずに済んだ。

平日のコンサートとあって、お客さまの波は開始時刻ギリギリまで途切れない。
途中入場する人も結構いて、ゆっくり演奏を堪能できたのは後半だけ。

久しぶりだったせいもあり、仕事を終えた時にはどっと疲れを覚えた。


「あれ? ハナさん、ヴァイオリン持って来てたんですね? 演奏する予定があるんですか?」


着替えを終えてロッカールームを出ると、廊下で待っていてくれた美湖ちゃんが首を傾げた。


「ううん。ちょっと、昼間に音羽さんのところへ……って、そうだ! オケが出演依頼していた大物って、音羽さんだったんだね?」

「あ、はい。そうなんです。友野先生の大学のOGという細ーい糸を手繰り寄せまして。あの、でもっ! ハナさん、気を使ったりしないでくださいね?」

「それはないけど……でも、あの、音羽さんのほうが無茶を言いそうな気が……」


わたしがソリストのプログラムを組むように要求するなんて、思いっきり私情が挟まっている。
普通なら、そんなの口先だけの冗談だろうと聞き流すところだが、音羽さんの場合は本気で言いそうで怖い。

しかし、美湖ちゃんは、前のめりで宣言した。


「出てくれるなら、どんな無茶を言われても何とかしますっ!」

「でも、無理なら無理って言ったほうが……」

「最初から無理だと決めつけたら、何もできないです。アマチュアだからって、『そこそこ』でいいなんてことはありません! 一生懸命やって『そこそこ』になるのと、最初から『そこそこ』でいいと思うのとでは話が別ですし、到達できる場所もちがってきます」


向上心を失えば、それ以上上手くはなれない。
正論だ。


(美湖ちゃん、熱いなぁ……)


オケの全員が、彼女の考えに賛同するわけではないだろう。
けれど、少なくとも、ひどい音楽を聴かせようと思っている人は、ひとりもいないはずだ。


「いままでは、できそうなところを定演に持って来ていました。でも、そろそろ『挑戦』してもいいんじゃないかと思うんです。ただ、ソリストにはオケをぐいぐい引っ張っていってもらわなくちゃいけないから、経験豊富で、かつスタイルが確立している人がいいだろうと……」

「それで、音羽さん」

「はい。女帝の前には、ひれ伏すしかないですし」

「そうだねぇ……」


今日、合わせてみて抱いた感想にぴったりだ。


「ハナさんも、そうなりそうな予感ありますけどね」

「は?」

「いまは、わたしたちに合せてくれていますけれど、もっと自由に弾いたらちがうんだろうなぁって」

「そんなこと……」


ない、とは言えなかった。

自分の役目は練習用の代理。
オケに合せているところがあるのは否めない。


「だから、本気のハナさんとも共演してみたいです」


そう言ってにっこり笑った美湖ちゃんは、「次は、オケの練習で!」と言って駅舎内へ姿を消した。

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