溺愛音感


(マキくん、電話しろって言ってたけど……)


スマホを取り出しかけ、駅前の広場でバスキングをしているパフォーマーの姿が目に入り、ふと父のことを思い出した。

ステージではなく、路上で演奏することを選んだのは、自由に演奏したかったから。
批評家たちの顔色を窺い、業界の慣例に縛られ、窮屈な生活を送るよりも、稼ぎは少なくても、純粋に聴衆の反応だけを受け取るほうがいいと言っていた。

もし、和樹に拾われなかったら、わたしも父と同じように路上でだけ演奏することに、満足していただろう。

でも、ステージの上で弾くことで、路上では得られなかったことをたくさん経験した。
窮屈で、居心地はけっして良くなかったけれど、嫌いではなかった。

音羽さんに言われたことを思い返す。

オーケストラと共演し、大勢の人に聴いてもらえることが、嬉しくて、楽しくて、好きだった。
そして、たったひとり――マキくんのためだけに弾けることも、嬉しくて、楽しくて、好きだった。

それは、比べようのないことで、どちらか一方を選ぶなんて不可能だ。


(どちらも手放さない道……ほんとに、そんなものあるのかなぁ……)


小さな溜息を吐いて、手にしたヴァイオリンを見下ろす。


(ちょっと気晴らし……しようかな?)


広場の片隅に立ち、調弦しながらふと思った。


(すっかり……大丈夫になってる)


手が震えることも、心拍数がはね上がることもない。
緊張はしているが、心地よい程度。

あんなに、もがき苦しんでいたのが嘘のようだ。

クラシック、映画音楽、ジャズと無節操な選曲で三十分くらい弾いただろうか。
ひと息吐こうと顔を上げ、目の前にいた人物を見て硬直した。

スーツ姿で、ヴァイオリンケースを持っている男性は、元婚約者だった。


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