溺愛音感
花梨さんが彼女を呼び出した理由がわからなかった。
マキくんからは、あの記事にまつわる何の話も未だ聞かされていない。
はっきりしているのは、あの日彼女が嘘を吐いてわたしをあのホテルに呼び出したことだけだ。
わたしに嫉妬したのが理由かもしれないが、それだって、花梨さんの推測に過ぎない。
椿さんは、わたしたちの異様な雰囲気を察し、余計なことは一切言わず、ブレンドを運ぶとすぐにカウンターの向こうへ戻る。
中村さんが、湯気の立つコーヒーをひと口飲むのを見届けて、花梨さんはいきなり本題に入った。
「会社を退職されるそうね? ご結婚されるの? それとも……不祥事を起こしかけたことが理由の依願退職かしら?」
「…………」
見るからに動揺した様子の中村さんは、危うくコーヒーをこぼしかけ、震える手でカップを置いた。
「わたしは、目障りだったあなたが柾さんの周りから消えてくれるのなら、どちらでもかまわないのだけれど……立つ鳥跡を濁さずという言葉をご存じ?」
これまでの上品でユーモアがあり、気さくな花梨さんとはまったくちがう、高飛車で冷たい言葉に驚かされる。
「柾さんは優しいから、退職だけで話を治めるつもりでしょうけれど、わたしは優しくないの。わたしと柾さんの仲を邪推して、ハナさんを呼び出し、わたしたちの会話を聞かせるなんて、悪趣味にもほどがあるわ」
「そんな、つもりは……」
「では、どういうつもりだったのかしら?」
「…………」
「ここは、わたしのお気に入りのカフェなのよ。雰囲気を壊したくないから、さっさとすべきことをして、立ち去ってもらいたいわ」
「……すべき、こと?」
「謝罪。説明。あなたがハナさんにすべき、最低限のことよ」
俯きがちだった顔を上げた中村さんは、暗い瞳でわたしを見つめ、唇を歪めるようにして笑った。
「謝罪するつもりなんて、ないわ。だって、本当のことでしょう?」