溺愛音感
つい、うっとり聴き入ってしまい、割れんばかりの拍手の音で我に返った。
(な、なんか順番まちがったかも……このあとに弾くのって、かなりのプレッシャー……)
音羽さんに手招きされ、ギクシャクした動きでピアノの傍まで歩み寄る。
それまでざわついていた空間が静まり返り、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張に見舞われた。
(お、落ち着け、わたし!)
深呼吸し、演奏を始めようとした背に、音羽さんの呑気な声が降りかかる。
「ねえ、ハナ。わたしたち、何の曲を演奏するんだったかしら? ど忘れしちゃったわ」
「…………」
しんと静まり返っていた空間に、松太郎さんの豪快な笑い声が響き渡った。
つられるようにして、ほかのお客さんたちからも失笑が沸き起こり、一気にその場の空気が和む。
(もう、ヤダぁ……)
恥ずかしさで燃え尽きそうだと思いながら音羽さんを振り返ると、「してやったり」というような顔で笑っていた。
『愛の喜び』を弾く気なんてないのだ。
「……音羽さんの言った曲でいいよ」
「了解。というわけで、みなさーん! お騒がせしてごめんなさいねぇ? 曲は、ドヴォルザークのユーモレスク、第七曲でーす!」
くすくす笑う声が治まらない中、深呼吸してもう一度ヴァイオリンを構える。
ふと顔を上げると笑顔の人たちの中、ひとりだけ強張った表情をしている人がいた。
(『約束』を果たすという『約束』をしてもいいよね?)
演奏活動を再開させるに至っていない、中途半端な状態のわたしには、確かなものは何も示せない。
でも、ちゃんとあの時の約束を果たすという『約束』くらいは、できる。