溺愛音感
最後の一音が消え、ゆっくりと弓を下ろす。
音羽さんが立ち上がるのを待って一礼すれば、いつの間にか、再び静まり返っていた空間が拍手とざわめきで満たされた。
美湖ちゃんの締めくくりの言葉を聞いてすぐに立ち去る人もいれば、演奏していたメンバーにチラシをもらったり、美湖ちゃんに話しかけたり。音羽さんに握手やサインを頼んだり。中には、わたしにまで握手を求める人もいた。
放心状態で、流されるまま対応していたが、音羽さんに「のんびりしていていいの?」と背中を突かれ、本来の目的を思い出す。
「い、行ってくる!」
「頑張りなさい」
「うん」
急いでヴァイオリンをケースにしまい、入り乱れる動線を無理やり横切る。
窓際にいる人の前に辿り着き、口を開こうとして、彼以外にも人がいたことにいまさら気づいた。
「ハナちゃん! すばらしい演奏だった! さすが母娘だ。息もぴたりだった」
「あ……ありがとうございます、松太郎さん」
ニコニコ笑う松太郎さんが差し出す手を握ると、力強く握り返される。
「ハナは、ヴァイオリンを弾いているときは、まるで別人だな? お使いに来て迷子になっていたダメ犬には、ぜんぜん見えなかった」
「――っ!」
失礼な感想を述べた雪柳さんは、むっとして睨むわたしの頭を軽く叩き、音羽さんに挨拶するという松太郎さんと一緒に立ち去った。
「マキくん、あ、の……」
「いい演奏だった。ハナ」
「あり……あり、がと……あの、ええと……」
あの曲を弾いたのは、ようやく思い出したからだと言わなくてはと思うのに、上手く言葉が出て来ない。
そんなわたしの様子に、マキくんはぎゅっと眉根を寄せてこれまで何度も繰り返した謝罪の言葉を口にする。
「大事な時に窮屈な思いをさせてすまない。手は打っているんだが……」
近くで見れば、顔色があまりよくないことがよくわかる。
これ以上、苦しんだり、辛い思いをしたりしてほしくない。
これ以上、俺様らしくない姿を見たくない。
その一心で、ポケットに入れていたものを差し出した。
「あの、こ、これっ……」
「何だ?」
「ゆ、指輪」
「指輪?」
インターネットで、人気のプロポーズの言葉なるものを検索し、結婚のマニュアル本を読み、準備万端に整えた。
マキくん対策として、理論立てて話をした上で結婚をお願いしようと思っていたのだけれど……
わたしの口から飛び出したのは、プロポーズの言葉ランキング第一位。
何の変哲もないひと言だった。
「け……結婚してくださいっ!」