溺愛音感
「…………」
時間にして、軽く一分は過ぎただろう。
沈黙に不安を感じ、そおっと見上げれば、マキくんはこれ以上はないくらいに目を見開き、蝋人形のごとく固まっていた。
(マキくん、目が落ちそうだよ……って、あ! そうだ! り、理由! 理由を言ってなかったっ!)
順番があとになってしまったが、ここに至った理由を説明しなくてはと慌てて口を開く。
「も、もちろん、いますぐってことじゃなくて! 本当に結婚するのは、コンクールが終わってから……うんん、定演で約束果たしてからでいいし! あ、でも、コンクールで入賞しないと音羽さんの条件を満たせないから、定演には出られな……や、でも、コンクールで絶対、いい成績を治めるから! それで、そのためには、あっちでちゃんとレッスン受けたほうがよくて。だから、『約束』が必要でっ! 約束の定番といえばプロポーズでしょ? でも、男の人はエンゲージリングしないから。ファッションリングはチャラいし。マキくんのお給料三か月分にはぜんぜん足りないけどっ、一応、老舗ブランドのもので、それなりのお値段で、わたしが買える精一杯で……」
「エンゲージリングでも、ファッションリングでもなければ、いったい……」
ようやく人間に戻ったらしいマキくんは、わたしの手から取り上げた小さな箱を開き、再び目を見開く。
(そ、そりゃあ、驚くよね? 落ちぶれたヴァイオリニストが入れるようなお店じゃないしね?)
「あの、ニセモノじゃないよ? お店には花梨さんが連れて行ってくれたし」
「そこは疑っていないが……花梨? どういうことだっ! 言え、ハナっ!」
彼女の名前を出した途端、俺様モード全開で問い詰められる。
「か、彼女が逆プロポーズしたっていうから、アドバイスを……そこのお店の常連さんで、紹介してくれて、ちょっぴりお得に……」
「…………」
茫然とした様子で額を押さえたマキくんは、そのままきちんと整えられていた髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
乱れた髪のせいで、童顔具合が三倍増しだ。
それはそれでかわいいが、社長には「かわいさ」より「威厳」が必要ではなかろうか。
「ま、マキくん、ここ会社……」
「ああ、そうだ。社のエントランスで、衆人環視の真っ只中だな」
「う、うん?」
「そんなところで公開プロポーズをされて、喜ぶヤツがいると思うか?」
自分なら、絶対にされたくないと思い首を振る。
「ううん」
「じゃあ、なんでこんな真似をするっ!」
ぐっと指輪の入った箱を握りしめた手が、それを放り投げてしまいそうで、慌てて叫んだ。
「だ、だって、ここなら、逃げられないからっ! マキくん素直じゃないから、『YES』としか言えない状況に持ち込んだほうがいいって思ったんだよっ!」
公開プロポーズに踏み切った理由は、いま現在拡散されている噂を打ち消すほどインパクトのある話題作りのため、というのもあるが、マキくんが言い逃れできない状況を作りたかったからでもある。
一国一城の主ならぬ、大企業を背負う社長の言動が無責任なものであってはいけない。
プライベートと仕事を明確に切り離せない立場だからこそ、社員や未来と現在の顧客である人たちの目や耳をごまかせない。
卑怯、と言われてもいい。
あとでどんなに罵られてもいい。
マキくんの本心を聞きたかった。
「小賢しい真似を…………」
ひしひしと感じる圧と冷気に、心が折れそうだ。
しかし、ここで負けては公開プロポーズならぬ、ただの恥ずかしい公開処刑になってしまう。
ぐっと拳を握りしめ、溢れそうな涙を瞬きで散らした時、背後から思いがけない援護射撃を得た。
「降参しろよ、柾。椿には黙っておいてやるから」