溺愛音感
からかいを滲ませた声の主は、雪柳さんだ。
「蓮、口を挟むな!」
マキくんは未来の義弟に対し、険悪な表情で噛みつく。
「このままじゃ、みんな気になって仕事に身が入らないんだよ」
雪柳さんの手が示した先、エントランスや吹き抜けの二階、三階の通路に人が溢れている。
そのほとんどが、社員証を首からぶら下げているところを見ると、『KOKONOE』の社員のようだ。
「全員、職場放棄で処分してやる……」
マキくんは呻くように脅しの言葉を吐いたが、雪柳さんはにやりと笑った。
「残念。コンサートの開催に伴って、昼の休憩時間を特別に三十分延長するよう、会長直々に通達があったんだよ、今朝」
「音羽先生から、ハナちゃんのプロポーズ大作戦を聞いて、事前に各部署へメールを流しておいた。わしの機転に感謝しろ、柾」
雪柳さんの横には、音羽さんと腕を組み、ニヤニヤ笑っている松太郎さんがいる。
「…………」
「ま、マキくん、あの……そろそろ返事を……」
自ら企てた公開プロポーズだけれど、宙ぶらりんな状態で注目され続けるのは居心地が悪い。
さっさと「YES」と言ってくれ! という気持ちで返事を催促したら、予想外の反応が返って来た。
「どうして『YES』以外の返事はないと思うんだ?」
「え」
「プロポーズの成功率は約七十パーセントという説がある。つまり、断られるケースもあるということだ。意思が固ければ、状況に流されることはない。結婚という大事な決断をするのなら慎重になるのは当然だ。返事を先延ばしにするのも珍しいことではないだろう。つまり、いまこの場で俺が『NO』という可能性は十分ある」
「…………」
胸に突き刺さる正論が、一度は引っ込んだ涙を再び呼び戻す。
(こ、これはもう、失敗でいいんじゃ……わたし、いますぐ走って逃げても許されるんじゃ……)
じりじりと後ずさりする頭上に、さらなるダメ出しが落ちて来る。
「そもそも、順番がおかしいだろう?」
(じ、順番? 何の?)
「どうして結婚を申し込んだんだ?」
(え、それ訊く?)
唖然とするわたしを見下ろすマキくんの表情は、不機嫌極まりない。
「プロポーズの前に、することがあるだろう!」
(な、何をしろと?)
とんでもないことを要求されるのでは、と慄いたが、マキくんの要求はシンプルかつ「いまさら」なものだった。
「愛の告白もされていないのに、どうやって返事をしろと言うんだ!」