溺愛音感


マキくんが松太郎さんの家を出たのは、ひとり暮らしがしたかったからではなくて、もうなくなってしまった「家族」を思い出すのが辛かったからではないかと思っていた。

だから、わたしの妊娠は、再び「家族」を取り戻すいいきっかけになるはずだ。


「姑ほどではないと思うけれど、舅というのも面倒だよ?」

「松太郎さんはとても優しいし、面倒だなんて思いません。それに、このままだと松太郎さんは、あの家を売ってしまうつもりです。あの家は、マキくんにとって……マキくんの家族みんなにとって、思い出が詰まった大事な場所だから、失くしたくない」

「ハナさんは……優しいね」


わたしを見下ろす瞳が、少し潤んでいた。
それでも、涙をこぼすことなく、お義父さんはきれいに微笑む。


「柾は、いいパートナーを見つけたようだ」


家族を壊してしまった彼が、何を思い、どんなことに苦しんでいるのか、わたしには計り知れない。

けれど、壊れることを望んでいたわけではないのだろうことは、わかる。
本当にそれを望んでいたのなら、とっくの昔に放り出し、逃げ出していたはずだ。


「ありがとうございます」

「僕は、父親だと胸を張って言えるような身ではないけれど、一つくらいは息子のためにしてやれることがあるかもしれないね」


そう言ったお義父さんは、ふと何かに気づいたのか、「マズイ」と呟きくるりと背を向けた。


「ハナさん。僕は、ここにいなかった。だから、いまの話は聞かなかった。そういうことにしよう」

「え? あ、はい??」

「君たちが会長の家に移ったら、改めて会いに行くよ。その時は、ちゃんと『初めまして』と言ってね?」


そそくさと立ち去る背に、消化不良なものを感じながら、視界の端に手招きする美湖ちゃんを捉える。


「あと一曲、今日は飛び入り参加のおまけがあります!」


もう断れない。
急いで美湖ちゃんに駆け寄った。


「何を演奏しますか?」


小声で訊ねられ、思い浮かんだ曲は「家路」だった。

ドヴォルザークの交響曲第九番 第二楽章の主題である旋律をもとにフィッシャーが編曲したものは、日本でもなじみが深い。

夕方に演奏すべき曲かもしれないが、どうしてもいま弾きたくて、いま聴いてほしかった。

美湖ちゃんは、「この曲を聴いたからって、早退したりしないでくださいね~」などと言って、聴衆の笑いを誘っている。

調弦を終え、頷いて見せると中央の場所を譲られた。

深呼吸し、弓を構えたところで、いつの間にか現れたマキくんがこちらを凝視しているのに気づく。

横にいる雪柳さんは、そんなマキくんを見遣り、笑いを噛み殺すのが大変そうだ。


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