溺愛音感
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「はぁ……疲れましたね。ハナさん」
スタッフの更衣室に引きあげるなり、美湖ちゃんは大きな溜息を吐いた。
「ちょっと大変だったね」
「でも、演奏中は仕事だってことも忘れて、堪能しちゃいました!」
「わたしも……」
仕事を疎かにするつもりはないけれど、耳を奪われる演奏に無関心でいるのは不可能だ。
「それにしても、チケット高すぎませんかっ!? 貧乏学生には手が出ませんよっ!」
「うん。フリーターのわたしも買えないよ」
「だから、あんまり実入りが良くなくっても、このバイト辞められないんですぅ……」
「そうだね。わたしも、辞められない」
二人で顔を見合わせ、苦笑いする。
美湖ちゃんは、わたしより二つ年下。
ごく普通のサラリーマン家庭に育った彼女は、学費を奨学金でまかない、大学院で音楽療法を勉強しつつ、生活費は自力で稼ぐ苦学生だ。
ここのアルバイトのほかにも音楽教室で講師をしているし、学内での活動にとどまらず『N市民交響楽団』でトランペットを吹き、時にはほかのオーケストラや吹奏楽団の出稼ぎ――エキストラもしている。
エネルギッシュでポジティブ。
残念ながら未だ聴く機会がないけれど、そんな彼女の吹くトランペットは、きっと明るくて華やかで、力強い響きを持っているんじゃないかと思う。
「そう言えば、ハナさん。先週のXXXフィルのコンサートもシフト入ってたんですよね? どうでした?」
「最高だった。ホール担当にしてくれたマネージャーに感謝しかないよ」
「くーっ! 羨ましいっ! やっぱり、なかなか土日にバイト入れないのは痛いなぁ……」
わたしがレセプショニストのアルバイトを始めたのは去年の秋から。
半年程度だけれど、出勤回数はすでに美湖ちゃんの一年分を軽く超えていた。
学生で、かつオケにも所属している彼女は、土日に自分の演奏会が入ることもしばしば。
わたしのようにすべてのコンサートにシフトインできないのだ。
「でも、自分の演奏会のほうが大事でしょ?」
「もちろんそうですけど、やっぱり一流の演奏を生で聴きたいじゃないですか。もしかしたら、次の機会がないかもしれないし! 人気ロックバンドが突然解散しちゃうのと一緒で、聴きたい時に聴けるとは限らないですもん。お年を召した指揮者やソリストだと海外ツアーを止めちゃうかもしれないし。わたし自身だって、聴ける状態にはないかもしれないし……」
「縁があればきっと聴けるよ。そういうものじゃない?」
「何をそんな呑気なこと言ってるんですかっ! 縁は、自ら手繰り寄せるものですっ!」
おしゃれなブラジャーに包まれた、わたしの三倍くらいはありそうな胸を突き出すようにして、美湖ちゃんは力説した。