婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました
 かつての自分なら……和食の最高峰と評された老舗料亭【宮松】のご令嬢のままだったなら……ヘイリーの指輪をなんの迷いもなく受け取って、今夜は彼とこの高級ホテルで一夜を共にしていたのだろうか。

 メゾンのドレスに身を包み、宗介と腕をからめて歩く自分の幻がそこに見えた気がして、紅は慌てて頭を振った。

 ご令嬢だった紅はもういない。宮松は倒産したのだ。メゾンのドレスもヘイリーも、そして宗介も、いまの紅には必要のないものだ。
 紅は顔を上げ、まっすぐに宗介を見つめた。

「もう自由になっていいと思うの。私も……宗くんも」

 宗介はくすりと唇の端だけで笑う。

「三十路の女性を捨てるのは罪深いってよく聞くけど、三十路の男を捨てるのはどうなんだろうね」

 紅は肩をすくめて、小さく息を吐いた。

「冗談にもならないことを言わないでよ。宗くんが結婚相手に困るはずがないでしょ」

 宗介は女性の理想をつめこんだような男だ。外見や収入はもちろん、優しくて紳士的で……彼を嫌う人はいないだろう。
 紅を殴り倒してでも彼を奪い取りたいという女性は、星の数ほどいることだろう。

 そもそも、大昔の約束ひとつで彼を縛りつけていたのがおかしな話だったのだ。
 紅と彼は恋人ではない。婚約者としての義務感からなのか、彼は月に一度か二度は必ず紅を食事に誘ってくれた。仕事や日々の生活で困っていることはないかといつも気遣ってくれた。だが、それ以上の関係になったことはない。キスですら、ただの一度もしたことはなかった。恋人同士だなんて、とても言えない。
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