婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました
 彼を好きになっても、いつかは失うかも知れない。それが、紅にはたまらなく怖かった。失くすくらいなら、最初からなにも持たないほうがいい。
 宮松と父親を失ったときのような喪失感は、もう二度と味わいたくなかった。

 抱えきれないほどの大きな幸せは望まない。身の丈に合ったささやかな幸せを見つけられれば、それで充分だ。

 それに……宗介が結婚にこだわる理由を紅は知っていた。正直、彼に申し訳ないと思う。宗介はもう自由になっていいはずだ。

「それ、幸せ恐怖症ってやつじゃない?克服しないと一生幸せになれないよ」

 紅の気持ちを聞いた玲子は思いっきり眉をしかめた。いつだってポジティブな彼女には、到底理解の及ばない心境なのだろう。

「……玲子にはわからないよ」

 嫌味な言い方をしてしまったことに紅は気がついたが、素直に謝る気持ちにはなれなかった。
 居場所を失う苦しみは、味わったことのある者にしかわからない。玲子には……きっとわかってもらえない。

 意固地になりやすいのは紅の欠点だが、そう簡単には直らない。そして、玲子の欠点はすぐに感情的になるところだった。

「紅ってそんな女だったっけ? 昔はおしとやかな外見に反してかっこいい女だったのに。私、ウジウジと臆病な女って大っ嫌い。ごめんね、今日はもう帰るわ」

 ウジウジと臆病な女。その通りすぎて、反論の余地もなかった。

 律儀に自分の分の千円を置いて店を出ていく玲子の背中を、紅はなにも言わずに見送った。
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