耽溺愛2-クールな准教授と暮らしていますー
ラプワールの奥さん、宮野由香梨は、【橘ゆかり】という名前で書籍を出す作家だった。
聞くところによると、去年は彼女が書いた小説が映画化もされていたらしい。
美寧は普段あまり読書をしないので、そのことをまったく知らなかった。

「俺も驚きました。今まで全然気付きませんでした」

美寧の少し後ろを歩きながら怜も言う。
彼は【橘ゆかり】の本を読んだことがあるらしい。本によっては【著者紹介】に顔写真が載っているものもあるが、今日と同じ“作家モード”なので、まったく気付かなかったようだ。

「ふふっ、大丈夫です。【橘ゆかり】の大ファンだった夫も気付かなかったくらいですから」

「そうだったんですね……」

怜の言葉に「はい、そうなんです」と頷いた杏奈は、ニコニコと朗らかな顔を美寧に向ける。

「でも良かった。美寧さんがラプワール(うち)に来てくれて」

「そうですか……?」

「失敗ばかりでマスターには迷惑をかけっぱなしなんです」と言う美寧に、杏奈は小さく首を振る。

「就職で私が家を出た時も寂しそうにしてたんだけど、去年結婚した後は、ちょっと元気がなくなっちゃったらしくて……でも、美寧さんが来てからまたヒロ君張り切るようになったって、お母さんが———」

「そう…なんですか?」

「うん!もう一人娘が出来たみたいだって、喜んでるって」

「………嬉しいです」

はにかんだ笑顔を浮かべた美寧がそう言うと、杏奈が笑顔になる。

「それに美寧さんにラプワールの仕事を教えるようになって、ヒロ君またやる気が湧いたみたいなの。それを聞いて安心した。あの店はヒロ君だけじゃなくて私にとっても特別な場所だから」

「特別な場所?」

「うん」と頷いた杏奈は、前を向いたまま昔に思いを馳せるように話し出した。

「物心ついたころにはお母さんはシングルマザーで、家に居たけど作家業(しごと)に一生懸命で私をかまう余裕なんてなかった。寂しい思いをした時もあったけど、私はお母さんが大好きで、いっつも一人で本を読んでたわ。でも、九歳の時にヒロ君が父親になってからは、学校から【ラプワール】にいつも直行。カウンターで宿題したり、お店の店員さんのまねごとをしたりね。高校生になってからは本当にアルバイトもしていたし」

そこまで言うと、杏奈は美寧の方を見て微笑んだ。

「だからね、【ラプワール】は私にとってもう一つの“実家”なの」

「もう一つの実家………」

「疲れた時とか哀しい時とか、あそこに行くとホッとするの。懐かしくて温かくていつまでも居たくなるような“心の故郷(ふるさと)”かな」

「心の故郷(ふるさと)……」

杏奈の言葉を反芻するように呟いた美寧に、杏奈は「もちろん、夫と暮らす家も本当の実家も大好きなんだよ」と言い添える。

「何かに悩んだ時とか壁にぶつかった時、思い出すの。『今の自分が(つちか)われた場所がちゃんとある』って」

「今の自分が……培われた場所………」

「うん。今の自分がいるのは、間違いなくヒロ君と【ラプワール】のおかげ。だから私にとってもあそこは大事な場所なんだ」
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