年下ピアニストの蜜愛エチュード
 千晶は順の手を取り、悲しい過去を振り払うように小さくかぶりを振った。

 失ったものは二度と戻らない。だからどんなにつらくても、とにかく前に進むしかないし、そうしてきたつもりだ。

 その時、アンジェロが新しい曲を弾き始め、千晶は反射的に顔を上げた。

(これ――)

 ショパンの『ノクターン第二十番嬰ハ短調』――以前ヒットした映画でも使われていて、数ある夜想曲の中でも有名な作品だ。

 遺作とも言われ、ゆったりしたもの悲しい単調で始まるが、途中から光が差すように転調して、最後は希望を感じさせる旋律で終わる。千晶も大好きな一曲で、昭からもらったCDにも収録されていた。

 事故後の苦しい日々、何度このノクターンに慰められたことだろう? 悲しくて、やりきれなくて、心が折れかけた時には聴かずにいられなかった。

 ふとピアノの方を見やると、アンジェロと視線が合った。

 もちろん彼は今、この曲をパーティーに集まった客たちのために弾いている。事故のことも詳しくは知らないはずだ。

 それなのに千晶は、なぜかアンジェロから語りかけられているような気がしてならなかった。

 ――お疲れさま、千晶。君はえらいね。よくがんばっているね。

 透き通った旋律に身を委ねていると、彼に優しく肩を抱かれているような、ふしぎな安心感を覚えてしまう。

(ばかね、私。そんなはずないのに)

 だが、もし本当にそうやって甘えることができたら、どんなにいいだろう? もちろん五歳も年上の自分には無理な話だけれど。

 やがて曲が終わり、アンジェロが笑顔で立ち上がった。

 たちまち歓声がわき起こり、千晶もなんとか微笑んで、順と共に大きく拍手した。
< 29 / 54 >

この作品をシェア

pagetop