今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第11章 スイート・サマー・バケーション

第1節

 その年の八月下旬になった。すでに高校の夏休みに入ってから四週間が経過している。

 安寿は岸のアトリエにイーゼルを立てて、夏休みの課題に取り組んでいた。安寿の油絵具のパレットはグリーン系統の色で埋めつくされて、まるでパレットの上で野草を育てているかのようだ。

 二週間前の出来事を思い出した安寿は、思わず深いため息をついた。安寿はアトリエの窓から空を見上げた。航志朗からあの森の絵が売れたと連絡があったのは、もう二か月近い前のことだ。その後すぐに安寿は担任の山口に内部進学の希望を申し出た。山口は少し驚いた様子だったが、「白戸、いろいろあるかもしれないけれど、君なら自分の道を自分の力で進むことができる」と励ましてくれた。

 安寿はアトリエの窓の外のまぶしすぎる青空を見て思った。

 (彼はいつ帰って来るんだろう。もうすぐ夏休みが終わってしまうのに)

 午後三時すぎになって少し疲れを感じた安寿は、画筆を置いてアトリエを出て行き自室に戻った。窓から熱気のこもった風が入って来て、レースのカーテンを揺らしている。岸家の屋敷はいつにも増してしんと静まり返っている。

 一週間前に岸と華鶴は毎年恒例の夏のスケッチ旅行に出かけていた。伊藤と咲もそれに合わせて夏季休暇を取り、おとといからふたりで金沢の温泉へ旅行に出かけた。

 安寿は華鶴からも咲からも一緒に旅行に行こうと誘われていたが断っていた。また、伊藤から北海道の叔母に会いに行ったらどうかと勧められたが、この提案も安寿は断った。
 
 安寿はここで待ちたかったのだ。航志朗が帰って来るのを。

 おとといの朝、伊藤は出発する前に、屋敷中の戸締まりを何回も確認した。そして、玄関と安寿の部屋の窓以外は絶対に鍵を開けないようにと、安寿に念を押した。

 うだるような暑さを感じつつ、安寿はベッドの上に横になった。一瞬、エアコンをつけようかと迷ったが、起き上がって窓を閉めるのが面倒で、安寿はそのまま目を閉じた。また二週間前の出来事が安寿の頭のなかをよぎった。安寿はそれを振り払うかのように首を振った。

 二週間前、突然、安寿は蒼にキスされたのだ。

 その時、航志朗は車を運転して岸家に向かっていた。午後一時すぎに羽田空港に到着したばかりだ。航志朗はいったんマンションに寄ってシャワーを浴びてから車に乗り込んだ。航志朗は気が急いていた。八月下旬に入ってようやく仕事が一段落すると、すぐさま飛行機に飛び乗った。シンガポールを離陸すると、航志朗は安寿と再会できる喜びが心の底から湧き出てきて身震いした。赤信号で停止すると、航志朗は汗ばんだ手のひらをカーキのボトムスでぬぐった。それは暑さからではない。航志朗はそんな自分に大いにリスクを感じていた。

 (まずい。こんな状態で彼女と会ったら、俺は自分をコントロールできなくなる)

 航志朗は肩を揺すって何回も深呼吸をしながら車を運転した。やがて、岸家が見えてきた。航志朗は合鍵を使って門を開けて、駐車場に車を停めた。

 岸家はいやに静まり返っていた。いつもだったら車のエンジン音に気づいて、伊藤か咲が出て来るはずだ。しかし、まったく人の気配がない。航志朗は不可解に思いながらエントランスのインターホンを鳴らした。だが、しばらく待っても応答がない。

 突然、航志朗は思い当たった。毎年八月に両親はスケッチ旅行に出かけて、同時期に伊藤夫妻が夏季休暇を取ることを。きっと安寿はどちらかについて行ってしまったのだろう。あるいは、北海道にいる叔母のもとへ行ったのかもしれない。思わず力が抜けた航志朗は玄関ドアの前にしゃがみこんでしまった。

 ふと航志朗は立ち上がり庭から屋敷を眺めると、安寿の部屋の窓のカーテンが風に揺れていることに気がついた。

 航志朗は頭で考えるよりも先に身体が動き、安寿の部屋のバルコニーに続く壁のくぼみに手と足を掛けて登り始めた。全身の筋肉に負荷がかかり汗が噴き出てきたが、難なく航志朗は二階のバルコニーまで登りつめた。

 航志朗は額の汗を腕でぬぐいながら小気味よく思った。

 (十数年ぶりに登ったな……)

 バルコニーから安寿の部屋となった子どもの頃の自分の部屋の窓を航志朗は見つめた。レースのカーテンが柔らかく揺れている。初めて安寿と会った時と同じ光景だ。航志朗はレースのカーテンをゆっくりと開けた。航志朗の胸は早鐘を打った。部屋の中をのぞくと、ベッドの上で安寿が仰向けになって目を閉じているのが目に入った。航志朗は全身が熱く煮えたぎっていくのを感じた。航志朗はベッドに近づいて、安寿を見下ろした。安寿の手の指先にはグリーンの油絵具が付着している。航志朗はその手にそっと自分の手を重ねた。そして、航志朗はかがんで安寿の顔をのぞき込んだ。安寿は少し口を開いて気持ちよさそうに眠っている。航志朗はベッドに両手をついて安寿に覆いかぶさり、その唇に自分の唇を重ねようとした。

 その時、突然、安寿が目を開き悲鳴をあげた。

 「きゃああ!」

 その声に仰天した航志朗は思わず後ろに身を引いた。安寿はすぐに航志朗に気づいて叫んだ。

 「もうっ! 航志朗さんは、いつも、私の前に突然現れるんだから!」

 それでも安寿は航志朗の琥珀色の瞳をまっすぐに見て微笑みながら言った。

 「おかえりなさい、航志朗さん」

 航志朗も安寿をまぶしそうに見つめて微笑んで言った。

 「ただいま、安寿」

 しばらくふたりは見つめ合った。やがて、航志朗が手を伸ばして安寿を抱き寄せようとすると、あわてて安寿が早口でまくしたてるように言った。

 「あっ、もうこんな時間! 航志朗さん、お腹空きましたよね? 私、夕食の支度をします。今夜はカレーですよ!」

 顔を赤らめた安寿は走って部屋を出て行った。

 後に残された航志朗は呆然としてつぶやいた。

 「安寿、まだ四時前だけど……」

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