今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 客室のソファの上にタキシードを荒々しく脱ぎ捨てて、そのまま航志朗は豪奢なベッドにもぐり込んだ。そしてまぶたの裏に安寿の面影を追った。胸が苦しくてどうしようもない。何度も寝返りを打った。航志朗は、今、ここで、安寿を抱きしめたいと心の奥底から求めた。いつもことだがなかなか寝つけなくて、航志朗は苛立ちを覚えた。

 翌日も快晴だった。航志朗は楽しげな表情を浮かべたロマンと二人で朝食をとっている。今日の昼すぎの便でシンガポールに戻る予定だ。ロマンはフォークでミニトマトやアーティチョークをプレートの脇にのけている。ロマンは野菜が苦手らしい。アジア系のナニーがそれを見とがめて、「ロマン、野菜も食べなきゃだめよ!」と怖い顔をして姉のように注意した。ノアはその隣で苦笑いして、まあまあと彼女の背中を優しくなでた。ナニーは頬を赤くしてノアを見上げた。

 「ええー。おじさま、朝食を食べたら帰っちゃうの! もっと僕と遊ぼうよ!」

 無理やりミニトマトを口に突っ込んだロマンが言った。

 「ロマンさま、申しわけございません。おじさまは仕事がありますので。一緒に仕事をしている友だちが私の帰りを待っているんです」

 「じゃあ、飛行機に乗る時間まで僕と遊ぼうよ!」

 「ロマンさま、申しわけございません。おじさまはニースのおみやげを買う時間が必要なのです」

 ひそかに航志朗は思った。

 (彼女に会う口実ができるからな……)

 ロマンは大人びた表情でウインクしながら言った。

 「わかった! おじさまの愛する恋人のためにでしょ? それなら仕方がないな。彼女に素敵なおみやげを買ってあげてね!」

 (さすがムッシュ・デュボアの息子だ……)

 いたく航志朗は感心した。

 「ロマンさまは、彼女にどんなおみやげがよいと思われますか?」

 いちおう航志朗は目の前の小さな紳士にアドバイスを求めた。

 「もちろん、キラキラしたダイヤモンドがいっぱいついたリングとかネックレスとかでしょ、女性たちが喜ぶのは」

 自信に満ちた様子でロマンは言ってのけた。大人の男がそんな簡単なこともわからないのかといった風情だ。

 「確かにロマンさまのおっしゃる通りですね」

 小さな紳士に気圧されながら航志朗は思った。

 (でも、彼女の好みがまったくわからないんだよな……)

 その様子をノアとナニーや給仕たちがくすくす笑いながら微笑ましく見守っている。この邸宅で働いている使用人たちは皆若く、まるできょうだいのように親密そうだ。その独特な雰囲気を航志朗は奇妙に感じた。

 結局、その日、航志朗は出発までにデュボアに会えなかった。昨夜、もしかしたら失礼なふるまいをしてしまったのかもしれないと航志朗は思った。ノアはそんな航志朗の心情を察して穏やかに進言した。

 「ムッシュ・キシ、心配ご無用です。()は起きる時間が決まっていないのです。もちろん寝る時間も食事の時間さえも。彼の思うがままに、自由に生きていますので」

 意外な言葉をかけられて、航志朗はノアに笑顔を見せた。

 「それは長生きされますね。ところで、あなたもムッシュ・デュボアのご子息なのですね?」

 「はい。ここにいる者たちは、皆、デュボア家の子どもたちです」

 目を見開いて航志朗は驚いた。どういうことなのだろうか。

 「とはいっても、皆、血の繋がりはありません。ムッシュ・デュボアともです。でも、私たちは皆、彼の子どもで、きょうだいです」

 そうノアは静かに微笑みながら言った。

 (それは彼の養子ということか?)

 航志朗はデュボアの得体の知れない容貌に背筋が凍った。改めて安寿の絵画の安否に不安を覚える。また、安寿自身になんらかの危害が及ぶのではないかという恐怖にも襲われた。だが、今の航志朗にはどうすることもできない。自分の無力さに航志朗は打ちのめされた。

 航志朗はロマンをはじめムッシュ・デュボアの子どもたちに見送られて、顧客の邸宅を後にした。車の中で航志朗はあまりにも衝撃的な事実を知らされて動揺していた。隣には空のアタッシェケースが置いてある。航志朗は眼下の美しい地中海がまったく目に入らない。安寿をあの城に置き去りにして来たかのような嫌な気分になって、航志朗は腕を組んで固く目を閉じた。

 空港に向かう途中、とある店の前に車が停まった。そのビーチ沿いの小さな店は十代の少女たちで賑わっていた。助手席に座ったノアが振り返って言った。

 「ムッシュ・キシ、ここは地元のリセエンヌたちに人気がある店なんです。よかったらご覧になって行かれますか?」

 (ニースの女子高生に人気がある店?)

 興味を持った航志朗はノアと車を降りて、ガラス越しに店の中をのぞいた。白い漆喰が塗られた簡素な店の中には、清楚なグレーの修道服のようなロングワンピースを身に着けた女が、熱心に彫金をしている姿が見えた。

 その女の服は安寿が着ていた高校の制服を思い起こさせた。ショーケースには、ネックレスやリングなどのさまざまなアクセサリーが並んでいる。どれも小さな羽根のチャームがついている。

 「あのマダムが手作りしたアクセサリーを身につけると、必ず恋が成就するって評判なんです。……かくいう私も」

 少し顔を赤らめてノアは左手首を航志朗に見せた。そこには、小さな羽根のチャームがついたブレスレットがつけられていた。

 航志朗は穏やかに微笑みながら言った。

 「では、あなたも片想い中ということですね」

 ノアは親しみ深く笑いながら言った。

 「『あなたも』とおっしゃいましたね? ムッシュ・キシ」

 「ノアさん。どうぞ、私のことはコーシと呼んでください」

 航志朗は爽やかに笑った。ノアはまぶしそうに航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。

 「わかりました、コーシ。では、私のこともノアとお呼びください」

 片想い中のふたりは照れくさそうに笑いながら握手した。その後、航志朗はノアと同じブレスレットを買い求めた。

 シンガポール行きの飛行機に乗った航志朗はコーヒーを飲みながら、ノートパソコンのキーボードを打っていた。ふと左手首につけたブレスレットが目に入った。そして、航志朗はあることに気づいて苦笑いした。

 (俺は彼女に会いに行くために、ニースの土産を買うつもりだったんじゃないのか。何やってんだ、俺は……)

 航志朗は深いため息をついて、小窓の外を見た。アクリル製の小窓の外側はひどく汚れているが、澄みきった青空に雲海が広がっているのが見える。

 (安寿さん、君に会いたい。今、すぐに……)

 航志朗はその想いを胸の奥底から東の果てにいる安寿に向けて、思いきり空の彼方へ飛ばした。




 



 



 







 

 

 







 

 



 

 







 
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