哀愁の彼方に
まるように説得し、一方では、市松の件についても穏便に処理をして欲しいと警察に請願
した。市松が、十八歳という年齢でもあり、事は大きくならずに穏便に収まった。純子は、
安堵の表情に変わっていた。
 節は、その事件があってから家には帰らずお寺のお堂の中で過していたが、食べる物も
なくひもじい思いで二日間が過ぎた。三日目の朝、市松が警察から帰ってくると同時に純
子から呼び出された。
「市松、これは節への奉公代だす。お前から渡しておくれ。それにな、お前は、今日でや
めてもらうよってな。明日からは、どこへでも行きなはれ。お前には、奉公代は、あらし
まへん。」
「・・・・へい!」
節には、良心の欠片が働いたのか僅かなお金と純子の古い着物を与えられ、ひまを出され
た。市松には、何一つ与えられることなくゴミをはき捨てるようにせかされて、追い出さ
れた。市松は、自分の荷物と節へのお金と古着に節の荷物を持ってその日のうちに奉公先
の山北屋を出た。節が、お寺のお堂の中にいることは、同じ奉公人から聞かされていたの
で、真っ先に節のいるお堂の中へ行った。
「節どん?どないや?変わりないか?お腹すいとるやろう?これおにぎりや、食べや!遠
慮はいらん。食べや」
「おおきに、市どんて、優しいんやな」
「節どんにしてもろうたお礼や。こんなことで節どんにしてもろうたお礼を返せると思う
てないけどな」
節は、空腹のあまり市松が持ってきた三個のおにぎりをぺろりと平らげてしまった。
「節どん、これからどうする?」
「市どん、その、節どんは、もう、止めておこう」
「自分かて、市どんって言ってる・・・・」
二人は、むしろすがすがしい思いを噛み締めていた。明日からの心配よりも、地獄のよう
な仕打ちから開放された喜びで一杯だった。しかし、それもつかの間、自分たちが生きて
いくすべを考えなければならない現実があった。
「節さんは、田舎へ帰るんか?」
「田舎へ帰っても、家族が多いし、とうてい食っていけへん」
「そうなんや、僕と一緒やな」
「うちは、市さんに恩があるよって」
「恩なんてあらへん」
「うちは、その借りを市さんに返すまで、市さんのために一生懸命に働こうって思てるね
ん」
「節さんは、借りなんてああへん」
「そやかて、うちのために、こんなめに会わせてしもうて、ほんまにかんにんやで」
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