哀愁の彼方に
節は、市松が、自分のためにこのようなめになったことを申し訳なく感じていた。節は、
市松のために一生尽くしたいと強く思った。市松は、そんなこと少しも気に留めていなか
った。彼は、一番にすがすがしい気分に浸っていた。彼は、なりゆきで出来てしまった結
果に感謝をしていた。そうでもしなければ、あの胸くそ悪い山北屋から逃げ出せなかった
のである。市松には、かすかな当てがあった。それは彼が、これまで行商に出て、親切を
受けた客先に大きな店があった。その店は、味噌を醸造する店で、かねてから働き者で勉
学に励む市松に好感を持っていた。
「節さん、味噌を作るの嫌か?」
「うち味噌は、大好きや。味噌を作るのも大好きや。お母ちゃん、よう、作ってたの手伝
った」
「そうやったら、決まりや。丸中屋さんを訪ねて、お世話になろう」
「うちまで、許してもらえるやろか?」
「大丈夫や。丸中屋さんの旦那さんは、ええ人や。きっと僕も節さんも雇ってくれはる」
 二人は、丸中屋をあてにして16キロメールの道のりを歩いた。丸中屋の主人の丸中忠
吉は、市松からことのいきさつを聞いて二人を暖かく迎えてくれた。丸中忠吉は、使用人
を大切に扱うことで有名で仏の忠吉と呼ばれていた。味噌の醸造には、熟練した業師と下
働きをする人足とが仲良く力を合わさなければ、大豆から味噌にはできない。丸中屋は、
この伝統を貫き通して味のいい、味噌を作り続けていた。その味噌は、さすがに最高級の
味がして人気のある味噌だった。市松と節にとって、丸中屋での仕事は、天国にいるよう
な店であった。主人の忠吉もその他の使用人達も、市松と節の働きぶりを認めて、思いや
りを尽くしてくれた。特に市松が、高等学校の通信教育で勉強していることを知ると、厳
しい仕事を変わってくれた。まして、市松が、医者になりたい夢を持っていると知ると、
主人の忠吉をはじめ使用人達は、毎月、僅かなお金を出し合って積み立ててくれた。
市松も節も、この暖かい行為に感謝して涙を隠して泣いた。彼らには、きっといつか、こ
の恩を返さなければ人間でないと思った。主人の忠吉やその使用人に恩を返せなくても、
誰かに、この恩を返して人としての道を全うしたいと思った。
 
 それから苦節二十五年の歳月が流れた。市松は、内科医になった。市松と節は、丸中屋
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