哀愁の彼方に
 江州の山深い村に迎えられて、すでに五年が過ぎていた。そうして6年目を迎えての春
が終わった。この年の気候は、この春の頃から不順であった。日照時間が、短く、雨が降
った。村を流れる幾つもの川の水かさは、いつもの年より15センチは多かった。これに
輪をかけて、この年の梅雨期は、近年にない雨が連日降り続いた。そうでなくとも川の水
かさは、例年よりも15センチも高かったから川は、すぐに氾濫した。
その中でも老之木川の氾濫が、危険水域を突破して警戒堤防にまで迫っていた。このまま
放置しておけば、堤防の決壊は、時間の問題であった。村人たちは、必死になって昼夜を
問わずに堤防の補強作業をした。補強作業と言ってもただ、土嚢を積み上げて補強する程
度しかできなかった。それが、今の時期にできる最良の策であった。しかし、刻々と激流
は、老之木川を通過したものの次の尻無川にそれまでの3倍の水量と水圧を含んで流れ込
んだ。ついに尻無川の堤防の一角が決壊して、たちまち荒れ狂った激流が、田植えを済ま
せたばかりの稲田に氾濫し、水田を濁流一面にしてしまった。
「先生!市松先生、大変なことになってしもうた」
「そうや!大変や。この水が引いた後が、大変や」
市松は、氾濫した水が引いた後の水田を心配していた。彼は、水田に流れ込んだ激流より
もこれらと一緒になって流れ込んだ流木砂や土石をどうやって回復させるかを案じていた。
最悪の場合は、水田を諦めなければならない。村人にとって、水田で米を作れないことは、
自分の家族を失う次に悲しいことである。
 村人達は、今はただ、濁流を眺めてなすすべもなく呆然としているしかなかった。
ここまで死人や怪我人が、出なかったことがなによりもの救いであった。雨は小雨になり
ながら、七日間も降り続いた。八日目には、これまでの雨が嘘のように晴れ渡り、青い空
のところどころに浮かぶ雲からは、初夏の強い紫外線が降り注いで来た。診療所の玄関の
横に生育している紫陽花の花にも初夏の陽射しが照りつけていた。その紫陽花の花は、鮮
明な紫紺の大きな輪をつくり満々と咲き誇っていた。
 それから、何日も晴れた日が続いた。濁流に飲まれていた水田は、一週間目に水が引い
て地肌を見せた。村人は、目を疑った。
それは市松が、想像した通りになっていた。
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