哀愁の彼方に
は、生前の節を偲んでは、涙を流した。
 四十九日が過ぎ百日が過ぎたころ、村長が、節の霊前に水田が見事復旧してその水田に
稲苗が植えられたことを報告した。節の遺影は、嬉しそうに微笑んでいるように市松には
見えた。この時、市松は、この世でたった一人の味方で、たった一人の伴侶である節の死
亡を受け入れた。彼は、嘆き悲しみのあまり生きる甲斐を失くしていたが、ようやく節の
死を受け入れて節の生まれ故郷に節を連れて帰りたいと思うようになった。市松が、酒び
たりになっていったのは、この頃からである。彼は、いつも節の傍にいて節に話しかけな
がら自分の余命を終えたいと考えるようになっていた。彼は、何度も節から聞いていた節
の生まれ故郷で節が生まれた貧しい農家の墓地に節の骨を埋葬してやりたい一心であった。
「先生、やっぱり行くんかい」
「ああ、妻(あれ)は、十歳で奉公に出てきて苦労しよった。そやよって、自分の故郷を知らん女
や。ワイが、連れて行かんと、もう、一人では帰れん女になってしもうた。本当にいい女
やった。可愛そうな女や。」
「先生、ワシらは、先生や節さんに口に出せん世話になった。それやのに何ひとつ恩返し
ができへん。それが、情けないんや」
「益三さん、わしと節は、皆さんにようしてもろうた。この土地は、わしらにとって天国
のようなものやった。」
市松は、偽りのない気持を東中益三に伝えた。
「節のことを考えると、どうしても妻(あれ)の生まれ故郷へ連れて帰ってやりたんや。妻(あれ)も生ま
れ故郷の両親の傍にいたいやろう。」
「先生、よく解る。節さんを大事に祭ってあげや」
「おおきに。わしも節も皆さんのことは、決して忘れられへん。」
市松は、節の遺骨を手にして彼女の生まれ故郷である能勢の山奥へ旅立っていった。村人
達は、泣いて見送ってくれた。その別れと言うものは、いつか再会ができると言う希望的
な別れではない。もう二度と会うことのない絶望的な別れであった。それゆえ、市松も村
人達も悲劇的な涙を流した今生の別れであった。村人達は、市松の姿が見えなくなるまで
見送っていた。この辺境にも初夏が訪れて山並みは、深い緑と化した木々が、夏の匂いを
放っていた。その中に節の霊を祭る碑の前には、だれかれとなく参拝する村人が供えた線
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