哀愁の彼方に
香の香りが漂っていた。節は、確かにこの村の用水路で死んだが、彼女の魂は、村人達の
中にこうこうと生きていた。しかし、それも月日が経ち、世代が変われば、忘れられて行
くのだろう。それは、こんな女がいたと言う伝説として語られ、いずれは、それも忘れら
れて行くのだろう。市松は、それでいいと思った。彼は、節なら、それを望んでいるにち
がいないと思った。そのときに初めて節は、自分のものになり、自分だけの節になれるの
だと思った。

能勢の山奥に着いた市松は、つぶやいた。
「やっと来た。節、お前の故郷や。帰ってきたんだよ。いいとこやな。運命が変わってい
たら、お前は、一生こんないいとこで暮らせたのに。」
市松は、無性にセンチメンタになっていた。
「これからは、ここで二人で暮らそう。わしが、一緒やよって心配いらんで。やっと、お
前は、わしだけのものになってくれた。」
市松は、安堵の気持ちからその場に崩れてしまった。そして節の遺骨を大事に抱きかかえ
た。
 節の生家は、すでになくなっていて、節の身寄りは都会へ出て行っていた。節の両親が、
眠るお墓だけが、昔のままの墓地で草に覆われていた。市松は、そのお墓の傍で節と節の
両親の墓を守りながら余生を送りたいと思った。彼は、地主の山下元八にそのことをお願
いすると、元八は、快く承知してくれた。元八は、さっそく墓の近くの物置を改造して人
が住めるようにしてくれた。市松は、節の遺骨を彼女の両親が眠る墓の地中に埋葬してま
た、泣き崩れた。彼は、節の遺骨のすべてをどうしても埋葬できなかった。その一部は、
小さな宝石箱に入れて、さらに小さなペンダントに加工していつも自分の肌身につけてい
た。そうすることで彼の気持ちは落ち着き、節を自分のものとして愛していられる喜びを
感じていた。
 市松は、数日してから別れてきた村人の東中益三に短い手紙を書いた。それには、節の
遺骨を両親の墓に埋葬したこと、自分は、節と二度と離れないで節の墓を守ることが書か
れていた。
 東中益三と由美が、節の墓を訪ねてきたのは、その1週間後であった。益三と由美は、
節の墓にお参りしてまたも泣き崩れた。市松は、気丈夫に彼らを抱きかかえて自分の家に
連れて入った。その夜は、節の生前の思い出や節の生い立ちなどを語り合い翌朝には、益
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