哀愁の彼方に
三と由美は、帰って行った。市松は、由美の後ろ姿を見て最高の喜びに浸っていた。節が、
必死になって救った小さな命の大きさをまばゆいくらいに感じていた。
 市松は、日雇いで保険センターの住民検査データの整理をしていた。彼にはもう、節と
苦労したあのころの思いはなかった。彼は、僅かな日当を得て質素な暮らしをしていた。
そうしてまもなくこの地で誰にも知られないで余生を終えたいと言う願望を持っていた。
それで十分であった。彼にとって、節の墓の近くで死んでいければ大満足であった。彼の
生活は、質素であったが、焼酎に飲まれてしまっていた。確かに彼は、酒びたりであった
が、性格は温厚で正義感の強い老人であった。
 市松が、節の骨を埋葬してから七年忌が経ったある日、由美が、節の墓を訪ねて来た。
彼女は、学校を卒業して成長した姿を節に見てもらうと言ってやってきた。由美は、立派
な女性に成長していて市松は、その女性を由美と判らないくらいだった。
「由美ちゃん? まあ、立派になって。よう、来てくれた。おばちゃんもきっと喜んでく
れているわ。」
市松は、由美にお茶を入れて目を細めた。
「おばさんのご恩は、決して忘れていません。おばさんに頂いた命ですから大切にして、
世の中の人のために尽くします。それが、おばさんへの御礼だと思うんです。」
「そうか、そうか、立派になって、命を大切にして一生懸命に生きるんやで。おばちゃん
は、由美ちゃんを見守ってくれてるわ。」
由美も市松も不思議に涙が、流れた。市松は、焼酎に酔って酒臭い匂いをさせていた。
 
その頃、山下元八の末娘の妙子が、池に落ちて引き上げられて気を失っていた。風変りな
焼酎銘柄と思いがけない由美の訪れを受けた市松は、由美の酌で美酒に酔っていた。彼の
目は、うつろに節の写真を得意そうに由美に見せながらさらに焼酎を飲んでいた。その家
の中へ元八が、血相を変えて駆け込んできた。
「市さん!助けてくれ!娘が池に落ちた」
「池に!落ちた?!」
市松は、節の写真を懐に入れると、元八の案内する池の堤へ疾走した。由美は、七年前の
出来事を脳裏に浮かべて、悪い胸騒ぎを感じた。彼女は、市松の後を追いかけた。彼女は、
その途中に最悪の場面を何度も思い浮かべた。彼女は、今度は市松が、節のようにこの娘
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