哀愁の彼方に
性に関連する商売が、それであった。そのために、若い娘たちを多く抱えている。
 何故、市松が、こんな山北屋へ奉公に来たのか、理由などなかった。彼は、中学校を卒
業と同時に、食べられて、寝ることができて、生きていける先、それがあればよかった。
山北屋は、その求人の中にたまたまあっただけである。ただ、求人の説明会では、「10年
間、辛抱すれば、お店を一軒、持たせる」との美口上に心が迷ったことは、確かであった。
 市松は、友達の多くが上級の高等学校へ進んで行くのを横目で見ながら、進学していく
同窓たちを羨ましく思った。彼の学業成績はずば抜けてよかった。しかしながら、彼には
今の自分の身の程を十二分に理解できていたのである。彼は、医者になろう。いつか、き
っと医者になろうと思っていた。市松は、それを決して口に出さなかった。市松は、それ
を聴いた者は、きっと、馬鹿にするだろうと考えたからである。彼は、高校卒業の証明で
ある大学検定試験を受けて、その後、大学の医学部への入学試験を受ける青写真を描いて
いた。彼の一番の問題点は、大学への入学金であったが、医者にも診て貰うこともなく死
んでいった肉親の無念を晴らすためには、どうしても医者になる必要があった。市松の青
写真は、確かにしっかりしていたが、その道は険しくて、とくに大学検定試験に合格する
ためには、どのような勉強をすればいいのか、そこから始めなければならなかった。彼が
やっとの思いで手にしたものは、通信制の高校講座であった。これは、卒業すれば高校卒
業として認められる。れっきとした高校卒業である。彼は、夜中に勉強をした。文字をろ
くにも書けない、また文字をまともに読めない使用人が、多いなかで文字も読める、書け
る、さらに英文でさえ読めるという市松には、価値があった。しかし、それは、かえって
妬みを買う原因になっていくのである。特に、主人の山北重一とその妻の純子にとって面
白くなかった。そのために彼は、他の使用人よりもよりも辛い仕事をさせられてなお、食
事の量も減らされるのである。
 市松は、昼には主人に酷使されて、身も心もくたくたに疲れきって、夜になるとぐっす
り眠り込んでしまう日が多かったのである。しかし彼は、耐えた。彼にとって自由な時間
は、夜の眠る時間でしかなかったのである。その時間に彼は、医者になりたいがゆえに睡
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