バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
 しかし、社長は私に微笑みを向けていた。

「君にやるよ」

 私の手に置かれたのは万年筆型の香水スプレーだった。

「試供品でもらったんだ」

 私は混乱していて、左手で涙をぬぐうのが精一杯で、お礼すら言えずにいた。

 むしろ、ねぎらってくださったのは社長の方だった。

「慣れない仕事を急に頼んですまないね」

「い、いえ……」

 私は手の中の香水スプレーを見つめたまま、なんとか声を出した。

 本物の万年筆のように深みのある光沢に包まれていて、小さいのにずしりと重い。

 セレブの愛用品は試供品ですら豪華なんだな。

 エレベーターが七階に到着して扉が開く。

「ほら、先に出ろ」

 社長がボタンを押して扉を押さえている。

「すみません」

「隙間に気をつけろよ」

「はい」

 少し腰を入れて台車を押す。

 廊下の向こうからうちの社員が駆けてくる。

「社長もいらしてたんですか。星崎さんの分で搬入は完了です」

「間に合ったようだな」

「それと、館長さんがイベントスペースの配置について最終チェックをしてほしいそうです」

「よし、今のうちに見ておこう。ケータリングの方は?」

「今日はベリヒルラウンジのレストランに外注してるので、さきほど和食とイタリアンそれぞれに確認の連絡をしておきました。ワインの用意も問題ありません」

 説明を聞きながら社長はどんどん奥へ行ってしまう。

 と、スタッフ通用口から顔を出した田中さんに声をかけられた。

「あ、星崎さん、回収の分はここにあるって」

「はい、分かりました」

 返事をしている間に、もう社長の姿は見えなくなっていた。

「ねえ、社長と一緒だったの?」と矢島さんが目を輝かせている。

「うん。なんか緊張しちゃって」

「え、なんで?」と田中さんが意外そうな顔をしている。「けっこう気さくな人だと思うけど」

 それは私の方が意外だった。

「美術館が何階かって聞かれて答えられなかったんですよ」

「ああ、そっか。そういえば、ここ何階なの?」と矢島さんがあたりを見回している。

「七階です」

「あたしたちも広報部の人に着いてきただけだから分かんないよね」

 同意を求められた田中さんも苦笑しながらうなずいている。

 二人ともそうだったのか。

 こういう失敗で悩んでいるのって、私だけじゃないのかもしれない。

「さてと、じゃあ、これを回収していきますか」と田中さんが腰に手を当てながらため息をつく。「広報の人たちの分も持って帰らなくちゃならないのよね」

 おしゃべりしている場合ではない。

 持ってきた箱を置いて、廊下に積んであるものを台車に乗せる。

「あ、星崎さん、エレベーターおさえておいて」

「はい、分かりました」

 社長と二人きりの状況から解放されて少しホッとした。

 もっとうまく話せれば良かったのに、なんてちょっと思ったりもしたけど、そんな余裕なんかあるわけないって、すぐに社長のことは忘れてしまっていた。

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