バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
「そんなに手が震えていたらこぼれるだろう。私が運ぶよ」

 社長はそう言い残すと、私からグラスを受け取って文化庁長官のところへ行ってしまった。

 ものすごく顔が熱くて、スーツの中が蒸れるようだ。

 ただ、自分のことを気にしている場合ではなかった。

 もたもたしているうちに、また奥様を見失いそうになっていた。

 見回すと、演壇の方で華やかな笑いがわき起こっていた。

 奥様は常に人の輪の中心にいて、周囲の人を和ませ、喜ばせているのだ。

 私はボトルを置いて奥様のところへ急いだ。

 司会者がマイクのスイッチを入れた。

「それではみなさま、弊社代表取締役新羅徹也より、ご挨拶を述べさせていただきます。撮影のお時間を取りますので、マスコミの皆様も前の方へお集まりください」

 スタンドマイクの置かれた演壇に、イタリア大使をはじめ、来賓が上がると拍手が沸き起こる。

 エマヌエラさんやミケーレさん夫妻も登壇した。

 演壇に上がる佐和子奥様にイタリア大使が手を差し伸べる。

 ほんの一段上がるだけとはいえ、スマートな心遣いをするところが日本のおじさんたちとは違うところだ。

 奥様の後ろに控えた私に向かって、山中先輩が手招きしている。

「ちょっと、七海。なんであなたまでそっち側にいるのよ」

 え、あ、そうか。

 私はあわてて壇を下りた。

「奥様のそばにいなくちゃと思ってて、ついていっちゃいました」

「子供か!」と裏拳ツッコミが入る。「私たちはセレブじゃないんだから」

 あやうくニュース映像に映り込んでしまうところだった。

 最後に大里選手が登壇すると、一斉にフラッシュがたかれる。

 引退のニュースが流れたばかりだから、マスコミの注目度も高いのだろう。

 社長も隣に立って、会社のPRに余念がない。

 撮影が済んだところで、社長が簡潔に謝辞を述べ、文部科学大臣の音頭でグラスを掲げた。

「日本とイタリアの友好に、乾杯!」

 奥様が来賓一人一人とグラスを触れ合わせていく。

 テレビカメラがその姿を追っている。

 私の隣で山中先輩がふっとため息をついていた。

 壇上の美咲さんのことを見つめているようだ。

「どうしたんですか、先輩」

「なんか向こう側の人になっちゃったんだなって。おんなじ会社で働いていたなんて信じられないよね」

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