バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
 でも、運ばれてきた朝食を見て、私はまた逃げ出したくなった。

 黒光りする一枚板を削ったお盆の上に並べられていたのは、朝ご飯なのに、温泉旅館の夕飯のようなメニューだった。

 ご飯に味噌汁はもちろん、シシトウとはじかみショウガの添えられたぶりの照り焼き、大根おろしと納豆、牛肉の塊を赤ワインで煮込んだもの、サラダに漬物、そしてめちゃくちゃいい香りのするオレンジ果肉のメロンと、カリカリに焼き目のついたクレームブリュレが並んでいる。

 あたたかなものからはほんわりと湯気が立っている。

 どうしよう。

 朝ご飯だけでまた請求書の数字が跳ね上がりそうだ。

 なかなか手をつけない私に看護師さんが微笑む。

「さあ、どうぞ。召し上がってくださいな」

「びょ、病人なのに、朝から、こ、こんなに食べてもいいんですか」

「元気なんだし、むしろ食べて体力つけた方がいいですからね。遠慮しなくていいですよ」

 看護師さんはそう言い残して部屋を出て行った。

 どうせお金を払うなら、全部食べなきゃ損だ。

 私は覚悟を決めて箸を手に取った。

 でも、メロンが気になってしまう。

 細かな編み目のついた皮の上に一口大にカットされた果肉が並んでいる。

 北海道のイメージ写真に必ず出てくるメロンみたいに完璧な熟し具合だ。

 幸いここは個室だ。

 他に誰も見ていない。

 お行儀とか遠慮なんて必要ない。

 だったら、何から食べてもいいじゃない。

 病み上がりだもの。

 あえてデザートからいくのも、こんなときにしかできない贅沢だ。

 私はフォークに持ち替えて、いただきますと念じながらメロンに突撃した。

 すっと抵抗なく刺さった果肉は崩れそうでいて、複雑に絡み合った繊維がしっかりと形を保ったまま私の口の中に入ってきた。

 閉じた瞬間、私は口を動かすことができなくなってしまった。

 じゅわりと果汁がほとばしり舌に絡みつく。

 フォークをくわえたまま鼻から思い切り息を吸うと、甘く清涼な香りが体全体に染み渡っていくようだった。

 口を閉じるだけで果汁が溶け出し、甘い官能が舌を包み込む。

 まるで強引に奪われるキス(妄想)のようだ。

 それはあらがうことのできない誘惑のような味わいだった。

 なんなんだろう、これ。

 こんなの食べたことがない。

 私はたまらずもう一切れ口に入れた。

 口を動かしていないのにいつの間にか溶けてなくなっている。

 思わずため息が出る。

 残りの果肉を次々に口に入れながら、私はまた値段のことを考えてしまっていた。

 どうしよう。

 料理の値段を当てるテレビ番組じゃないんだし、当てたところでどうせ自腹なんだもんね。

 高いんだろうなあ。

 ええい、もうどうにでもなればいいのよ。

 私は甘くとろける魅惑の果肉を堪能しつくした。

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