情熱
雑誌を担当している編集者や、出版社によっては会社に寝泊まりすることも多いというが、里穂の勤める出版社は、ワークライフバランスというのを重視しており、そういったことをしないように指導されていた。残業でさえあまり好ましくないと、早く帰るように言われる。その働きやすさから子育てをしながら正社員で働く女性も多かった。
社会人五年目が半分過ぎて、もうちょっと時間が欲しいと思う里穂にはもどかしいほどに、とてもクリーンな企業だった。
「里穂ちゃん、お腹空かないの?もうすぐ21時だよ」
佐々木さんという八歳年上の女性の先輩が里穂に声をかけた。彼女は、昨年離婚してこの職場に復職した人だった。
「週明けにスムーズになるようにって思うと、なかなか終えられなくて」
里穂が視線をパソコンから移すと、佐々木さんは「わかる、わかる」と笑った。
「ちょうど仕事が面白くなってくる年頃だしね。」
これから経験することをすべてわかっているかのように佐々木さんは言って、静かにデスクの上を片付けていた。
「一緒に帰らない?軽くご飯でも食べようよ」
にこやかに誘ってくれる彼女に裏はない。純粋に、週末の夜を一緒に楽しもう誘っているだけだった。
しかしながら里穂は「せっかくなんですが、もうちょっと、どうしても進めておきたくて」と言うと、彼女はじゃあまた今度、無理しないようにと、帰り道は気を付けるようにと、まるで母親のように里穂を気にかけて先に帰った。
それから三十分ほどパソコンと向き合った里穂は、時計を見て、慌てて身支度する。隣のフロアは明るく光っていたので、まだ残って作業している人もいるのだろうと思って、そのまま会社を出た。
職場近くのパン屋は仕事帰りの人のためを思ってか、少し遅い時間まで営業していた。里穂は残り1本のバケットとサーモンとチーズのペーストを買って電車に乗る。いつも乗るのと違う路線は、自宅反対方向だった。わずか三駅のところで降りて駅の正面にあるマンションに入った。
「ごめんね、遅くに」
ドアを開けた宗一郎に里穂は言った。
「いや、俺もさっき帰ってきたばかり」
たまに、こうして里穂は宗一郎のマンションを訪れる。
理由の一つは、里穂の職場からわずか三駅、しかも駅前だったこと。そしてもう一つは、貴広と違って飲み歩かない彼は、基本的に自宅で夜を過ごすので、捕まえやすかったことがあげられる。
最初に訪れたきっかけは、仕事が遅くなったことに加えて運悪く、アクシデントで電車が止まってしまっていたときだった。タクシーを待つ人の列もすさまじく、会社に寝袋があるとは聞いていたものの、とても使いたいとは思えず、とりあえず職場付近に住んでいた何人かの友人に連絡してみたのだ。そのときすぐに快諾してくれたのが宗一郎だった。それから電車を逃したときや、話したいことがあるとき、里穂は彼の家を訪れた。
「バケット、残り1本だったの。こういうの、すごく嬉しくて。わかる?」
里穂が笑って言うと、わかる、と言って宗一郎も笑った。
悪いけど先に飲んでいたよ、という彼のリビングのテーブルの上には口の開いた缶ビールが1本置いてあった。
「そのほうが嬉しいから」
待っていて欲しくない、と思って、里穂は言った。
その笑顔を見て安心したかのように宗一郎も笑った。でも里穂と飲む分のワインは手を付けていないよ、と言って。
夏らしい白ワインは、よく冷えたのを彼が買っておいてくれた。
宗一郎の言葉に里穂は「ごめんね、急に連絡して」と申し訳なさそうに言った。
「いや、大丈夫。今、ちょうど仕事がひと段落してるんだ。」
「それならよかったわ」
安堵したように里穂は言って、静かにバケットにペーストを塗った。二人でこうしているときは、それほど食べない。食事よりも会話がメインなのだ。もう少し食べてから話をしようかなと思いながら、話をするために来たのだから、と里穂は言った。
「貴広、ロンドンに行っちゃうって」
宗一郎は静かに頷いてワイングラスを口につけた。
「うん、聞いた」
聞いた、という言葉の続きを待ってみたものの、その後はただ沈黙が流れるだけで、少しずつぬるくなってゆく白ワインと、それから少しでも野菜をと用意されたミニトマトと宗一郎がいつも食べているという海外のきゅうりのピクルスを二人はゆっくりと口に運んだ。
「里穂も、一緒に行くのかな?」
声に反応して里穂が宗一郎の顔を見ると、彼はいつもと変わらない笑顔をみせた。みんなで集まってお酒を飲むときと同じように、大学生の頃と少しも変っていないように、穏やかで、丁寧な微笑みだった。たぶんそうやって、職場でも仕事をしているのだろう。
「そんなことまで聞いているのね」
「今日話したいことっていうのは、それなのかと思って」
「そうね。まあ、そう、そのことよ」
俯いて里穂が言う。継ぎ足しはNGと思いながら、ワインのボトルを持って、何かをごまかすみたいに宗一郎のグラスに液体を足す。
ありがとう、と言って宗一郎はグラスを口元に運んだ。
それ以上を何も言わない彼に、里穂はここにいる自分を正当化するために口を開いた。
「いろんなことが、いきなりありすぎて、驚いているの。桃子も結婚したばかりでしょう。それに貴広も海外に行っちゃうなんて。」
手元で宙ぶらりんになっている小さなきゅうりは行き場を失って、とてもむなしく見えた。宗一郎は黙っていた。まるで里穂の言葉を待つように食事を続けようともせず、静かに里穂と向かい合っていた。
「みんなこのままじゃいられないのね。そういう歳なのね。ずっと今が続いていくだけでよかったのに」
宗一郎は何も言わなかった。それでもずっとこうしていたいと思った。否定も肯定もしない彼の優しさを里穂は知っていたから。
こんなふうにワインを飲んで、バケットにペーストを塗り、ミニトマトをつまんで、向かい合って他愛ない日常の話をして、そんなことを永遠に繰り返していたかった。
里穂が泊まりに来ると、宗一郎はベッドを里穂に譲る。彼はいつも眠くなるまで読書をするか映画を観るのが好きだと言って、薄暗い部屋でソファにもたれかかるように横になっている。片手で持てるタブレットで、無音で、字幕で。きっと一人では音量など気にしないで映画を楽しむだろうにと思いながら、彼の優しさに感謝してベッドに横になる。
里穂は柔らかなブランケットに包まれて今にも眠りそうになりながら、宗一郎に顔を向けて言う。
「私ね、本当にみんなで仲良しでいられることに、感謝してきたの」
私はそんなにたくさんの人と上手に付き合えないから、と小さな声で付け足した。
宗一郎はタブレットを見つめたまま「うん」と返事をした。わかっているよ、というような声だった。
その様子を見ながら、綺麗な横顔、と里穂は思った。
ここから見えるその横顔が好きだった。伏せたまつげの感じとか、鼻筋と唇から顎までのラインが、すっと伸びていて、なんとなく‘綺麗な男の子’という感じがするのだ。決して不健康というのではなく、初めて会ったとき、テニスなんかよりも試験管や白衣のほうが似合うと思ったことを思い出した。
「私は、宗も貴広も桃子も、みんな同じように大切に思ってきて、ずっとみんな好きなままなのよ」
宗一郎はそのまま、先ほどと同じ声で、もう一度「うん」と言った。
社会人五年目が半分過ぎて、もうちょっと時間が欲しいと思う里穂にはもどかしいほどに、とてもクリーンな企業だった。
「里穂ちゃん、お腹空かないの?もうすぐ21時だよ」
佐々木さんという八歳年上の女性の先輩が里穂に声をかけた。彼女は、昨年離婚してこの職場に復職した人だった。
「週明けにスムーズになるようにって思うと、なかなか終えられなくて」
里穂が視線をパソコンから移すと、佐々木さんは「わかる、わかる」と笑った。
「ちょうど仕事が面白くなってくる年頃だしね。」
これから経験することをすべてわかっているかのように佐々木さんは言って、静かにデスクの上を片付けていた。
「一緒に帰らない?軽くご飯でも食べようよ」
にこやかに誘ってくれる彼女に裏はない。純粋に、週末の夜を一緒に楽しもう誘っているだけだった。
しかしながら里穂は「せっかくなんですが、もうちょっと、どうしても進めておきたくて」と言うと、彼女はじゃあまた今度、無理しないようにと、帰り道は気を付けるようにと、まるで母親のように里穂を気にかけて先に帰った。
それから三十分ほどパソコンと向き合った里穂は、時計を見て、慌てて身支度する。隣のフロアは明るく光っていたので、まだ残って作業している人もいるのだろうと思って、そのまま会社を出た。
職場近くのパン屋は仕事帰りの人のためを思ってか、少し遅い時間まで営業していた。里穂は残り1本のバケットとサーモンとチーズのペーストを買って電車に乗る。いつも乗るのと違う路線は、自宅反対方向だった。わずか三駅のところで降りて駅の正面にあるマンションに入った。
「ごめんね、遅くに」
ドアを開けた宗一郎に里穂は言った。
「いや、俺もさっき帰ってきたばかり」
たまに、こうして里穂は宗一郎のマンションを訪れる。
理由の一つは、里穂の職場からわずか三駅、しかも駅前だったこと。そしてもう一つは、貴広と違って飲み歩かない彼は、基本的に自宅で夜を過ごすので、捕まえやすかったことがあげられる。
最初に訪れたきっかけは、仕事が遅くなったことに加えて運悪く、アクシデントで電車が止まってしまっていたときだった。タクシーを待つ人の列もすさまじく、会社に寝袋があるとは聞いていたものの、とても使いたいとは思えず、とりあえず職場付近に住んでいた何人かの友人に連絡してみたのだ。そのときすぐに快諾してくれたのが宗一郎だった。それから電車を逃したときや、話したいことがあるとき、里穂は彼の家を訪れた。
「バケット、残り1本だったの。こういうの、すごく嬉しくて。わかる?」
里穂が笑って言うと、わかる、と言って宗一郎も笑った。
悪いけど先に飲んでいたよ、という彼のリビングのテーブルの上には口の開いた缶ビールが1本置いてあった。
「そのほうが嬉しいから」
待っていて欲しくない、と思って、里穂は言った。
その笑顔を見て安心したかのように宗一郎も笑った。でも里穂と飲む分のワインは手を付けていないよ、と言って。
夏らしい白ワインは、よく冷えたのを彼が買っておいてくれた。
宗一郎の言葉に里穂は「ごめんね、急に連絡して」と申し訳なさそうに言った。
「いや、大丈夫。今、ちょうど仕事がひと段落してるんだ。」
「それならよかったわ」
安堵したように里穂は言って、静かにバケットにペーストを塗った。二人でこうしているときは、それほど食べない。食事よりも会話がメインなのだ。もう少し食べてから話をしようかなと思いながら、話をするために来たのだから、と里穂は言った。
「貴広、ロンドンに行っちゃうって」
宗一郎は静かに頷いてワイングラスを口につけた。
「うん、聞いた」
聞いた、という言葉の続きを待ってみたものの、その後はただ沈黙が流れるだけで、少しずつぬるくなってゆく白ワインと、それから少しでも野菜をと用意されたミニトマトと宗一郎がいつも食べているという海外のきゅうりのピクルスを二人はゆっくりと口に運んだ。
「里穂も、一緒に行くのかな?」
声に反応して里穂が宗一郎の顔を見ると、彼はいつもと変わらない笑顔をみせた。みんなで集まってお酒を飲むときと同じように、大学生の頃と少しも変っていないように、穏やかで、丁寧な微笑みだった。たぶんそうやって、職場でも仕事をしているのだろう。
「そんなことまで聞いているのね」
「今日話したいことっていうのは、それなのかと思って」
「そうね。まあ、そう、そのことよ」
俯いて里穂が言う。継ぎ足しはNGと思いながら、ワインのボトルを持って、何かをごまかすみたいに宗一郎のグラスに液体を足す。
ありがとう、と言って宗一郎はグラスを口元に運んだ。
それ以上を何も言わない彼に、里穂はここにいる自分を正当化するために口を開いた。
「いろんなことが、いきなりありすぎて、驚いているの。桃子も結婚したばかりでしょう。それに貴広も海外に行っちゃうなんて。」
手元で宙ぶらりんになっている小さなきゅうりは行き場を失って、とてもむなしく見えた。宗一郎は黙っていた。まるで里穂の言葉を待つように食事を続けようともせず、静かに里穂と向かい合っていた。
「みんなこのままじゃいられないのね。そういう歳なのね。ずっと今が続いていくだけでよかったのに」
宗一郎は何も言わなかった。それでもずっとこうしていたいと思った。否定も肯定もしない彼の優しさを里穂は知っていたから。
こんなふうにワインを飲んで、バケットにペーストを塗り、ミニトマトをつまんで、向かい合って他愛ない日常の話をして、そんなことを永遠に繰り返していたかった。
里穂が泊まりに来ると、宗一郎はベッドを里穂に譲る。彼はいつも眠くなるまで読書をするか映画を観るのが好きだと言って、薄暗い部屋でソファにもたれかかるように横になっている。片手で持てるタブレットで、無音で、字幕で。きっと一人では音量など気にしないで映画を楽しむだろうにと思いながら、彼の優しさに感謝してベッドに横になる。
里穂は柔らかなブランケットに包まれて今にも眠りそうになりながら、宗一郎に顔を向けて言う。
「私ね、本当にみんなで仲良しでいられることに、感謝してきたの」
私はそんなにたくさんの人と上手に付き合えないから、と小さな声で付け足した。
宗一郎はタブレットを見つめたまま「うん」と返事をした。わかっているよ、というような声だった。
その様子を見ながら、綺麗な横顔、と里穂は思った。
ここから見えるその横顔が好きだった。伏せたまつげの感じとか、鼻筋と唇から顎までのラインが、すっと伸びていて、なんとなく‘綺麗な男の子’という感じがするのだ。決して不健康というのではなく、初めて会ったとき、テニスなんかよりも試験管や白衣のほうが似合うと思ったことを思い出した。
「私は、宗も貴広も桃子も、みんな同じように大切に思ってきて、ずっとみんな好きなままなのよ」
宗一郎はそのまま、先ほどと同じ声で、もう一度「うん」と言った。