情熱

里穂の本好きは育った環境が大きかった。

子供の頃、日曜日の夜は今週覚えた本のタイトルを7つ、作者名と合わせて答えるのが大学の文学部で教授をしていた父から出された課題だった。
なぜ7つなのかというと、1日1個ずつ覚えていけば週末の夜には7つのタイトルを覚えられるから、というものだった。

「地味に厳しい課題だな」
怪訝な顔をして貴広が言った。
宗一郎が聞いた。
「同じのを言うのは?」
「基本的にはだめ。でもお父さんも全部覚えていないから、たまに昔言った本のタイトルをもう一度言うこともあって、ばれないと、ちょっと嬉しかったの」
里穂の言葉に一同が笑う。

そして桃子が「その家ならではの習慣みたいなものってあるわよね」と言うと、貴広が言った。
「わかる、俺の家も夕食前はいつもすごい手をよく洗えって言われた」
「夕食前に限らず、普通じゃない?手は洗おうよ」
桃子が指摘して、一同はまた笑った。そうやって貴広はごく自然に話題を盛り上げてくれていた。まだみんなが仲良くなったばかりの学生時代から、ずっと。
そしてそういうとき、宗一郎は余計なことを言わずに微笑んで、誰の話にも合うように静かに頷く。そういう人だった。
否定も肯定もしない。彼はいつだって誰にだって平等に優しい。たぶん、目の前にこのなかの誰かの知り合いがふと現れて、話に加わろうとしても、無理に親切にも気を遣いもせず、もちろん冷たくあしらうこともせず、すでにこの場所にいる人間と同じように接しただろう。
そのことが、里穂にはありがたかった。どこまでも穏やかに続いてゆく感じがいつも安心したのだ。

「今でも、たまに7つの話みたいに父親からいきなり質問メールが来るの。最近食べたおいしい料理7つを答えよ、とかって」
「お父さん、娘にかまって欲しいのね」
桃子がそう言って、里穂は笑った。7つの話を答えるときみたいに、無邪気に、子どもの頃と変わらない心で。


銀座で会ってから二週間ほど過ぎた七月の日曜日、里穂は貴広と食事に出かけた。
約束した通りにきちんとおなかをすかせて、きちんと化粧をしている自分に、何をしているの、と聞きたかった。彼を嫌うことはなく、断る理由もなく、気持ちに応えられるのかもわからないまま、彼に会う自分があまりにも整っていたので。その顔を見るといつものように微笑んでしまう自分がわからなくて。

「イギリスからなら、すぐにヨーロッパのあちこちに行けるよ」
そういって、夏らしいスズキのポワレを食べながら貴広が言った。美しい前菜からメイン、料理に合わせたお酒まで、すべてがとてもおいしくて里穂は感動していたのだ。確かにこれは、誰かを連れてきたいと思う味だろう、と思った。
「そうやって、少しずつ、海外生活の魅力をアピールしていくのね」
「そうそう」
冗談のように笑う貴広を見るのが可笑しくもあり、嬉しくもあり、里穂も笑った。
「フランスだってドイツだって、イタリアだって、すぐに行けるよ。おいしいものはもちろん、海外の文学に親しむチャンスかもよ」
そう言う貴広は、決して里穂のキャリアのことを無視していたわけではないことを知って欲しいようだった。
新卒で就職して五年という時間は、少し経験が増えたようでもあるが社会人のキャリアとしてはまだまだ始まったばかりだ。先輩や上司に頼ることも多く、1人では不安な仕事も多い。もちろん、ゴールなんてものは永遠にないとも言えるのだが。

「ロンドンは都会だし、生活は不便がないよ。図書館はもちろんだし、博物館、美術館も、公園とか街並みも、何もかも日本にないものがたくさんある。そこでの経験は、何かにすぐに役に立つものではないかもしれないけど、きっと無駄じゃないと思う」
あまりにも正直で嘘のかけらものない貴広の言葉に里穂はまた少し切ない気持ちで微笑む。いっそ嘘をついて、調子のいいことだけを言って、無理にでも自分を連れて行こうとしてくれたらよかったのに。そうしたら、スッパリと断って、さようならと言えたのに。
「これでも、きちんと考えているから」
里穂が微笑んで言う。貴広はありがとう、と笑った。

料理に合わせて頂いている南仏のワインも爽やかで夏らしくてとてもおいしかった。
彼はこういう上質なお店とか、相手が喜びそうな食事をよく知っている。彼は人と食事をするのも仕事の一つだと言った。それは分子とかエネルギーとか空気とか、目に見えないものを仕事相手にしている宗一郎と違う丁寧さだった。やっぱり、仲は良くても真逆な二人と里穂は思いつつ、自分と桃子のことも想像して、笑った。自分たちだって、どちらかと言えば真逆に近いだろう。とたんに桃子の少しも気を遣わない無邪気な笑顔が恋しくなる。

食後のコーヒーとチョコレートまでしっかりいただいて、店を出た。少し歩こうと貴広はホテル内の庭園に里穂を連れて行った。庭園はところどころに灯りが灯されているものの、なかなか暗い。手入れされているとはいえ、石や草が邪魔をしてくるので足元は注意しないと躓いてしまいそうになる。人が一人歩ける程度の二メートルほどの小さな橋を渡っていると貴広が言った。
「ホタルがいるかも」
「いるの?」
「うん、いるらしい。俺は見たことないけど」
適当な返事に笑って貴広が言う。
「いい加減ね」
「いい、加減だよ」
適当という意味で使った里穂に対して、彼はちょうどいい具合、と、言いたかったようだ。そのことに里穂は笑った。
「俺は文系だからね。宗とは違う」
一歩か二歩先を歩く貴広は、その先に向かって言った。あいつは理系で、本当に細かい、とも。

少しだけ歩く速度が落ちた里穂を気にかけて貴広が振り向いた。暗くて、彼の白いシャツが目的地の目印のように明るく光っていた。
里穂、と、貴広が名前を呼ぶ。
里穂は、ここにいると返事をする。里穂が貴広に追いつくと、彼はその里穂の手を掴んで前を歩いた。
「大丈夫よ」
はぐれないから、迷ったりしないから。口には出さなかったけど。

その熱い手の感触を感じながら、しばらくの散歩の後、里穂は暗闇の中で言った。
「宗も来れたらよかったのにね」
桃子も、みんなで、一緒に。素敵なお庭だから、と。つぶやいた。とたんに残酷な気持ちになる。
貴広は否定とも肯定とも取れないようなくぐもった声で静かに、「うん」と言った。
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