きみが空を泳ぐいつかのその日まで
退院してからあの人は帰宅が早くなって、何をしたいのかは手に取るようにわかっていた。

「説明させてくれないか」
「何について?俺とあんたに血の繋がりがないことについて?」

ある晩の食卓でやっぱりそう聞かれたから率直な気持ちを声にした。戸惑っている様子の母さんを見て、彼女もそのことをつい最近まで知らされていなかったんだと確信をもった。

「知っておくべきだろう」
「ずっと隠しておいてよくそんなこと言えるよな? 今頃になってさ。んなこともうどうでもいいんだよ!」

食欲も失せて、テーブルに箸を叩きつけた。

「理人、パパに向かってなんてこと言うの!」
「うるせーよ!あんたは」

あんたは部外者だろうがと暴言を吐きそうになってそれを踏みとどまった。違うんだ、俺はみんなを責めたり傷つけたいわけじゃない。

母さんは……(かおる)さんは、ちょっと年の離れた俺の姉でもおかしくないくらい若い再婚相手だった。それが、なおさら神経を逆なでした。

3人の生活が始まってからは、俺はほとんどうちに帰らず学校もろくに行かないで、ずっと仲間の家を転々としてた。

髪を染めたりピアスをあけたり、夜通しゲームしたり喧嘩したり……俺も勝手にするからあんたたちもご自由にって感じだったのに、この人はそんな俺を責めたり余計な気を遣ったりはしなかった。

「君のお母さんにはどうやったってなれないだろうから、まぁ気楽にいこう」

初めて顔を会わせた日、ろくに目も合わそうとしない俺に向かってこの人はそう言った。
それなのにその言葉とは裏腹に、心から俺を頼ってくれたんだ。

「もういいよ。わかってる。15年前、小さな女の子を助けたシングルマザーの母ちゃんが死んで俺は孤児になった。それをあんたが引き取っただけのことだろ? 惚れてた女に同情した、だいたいはそんなとこなんだろ?」

唇を噛み締めて、拳を握りしめた。
違うのに、言いたいのはそんなことじゃないのに。

「そうじゃない。それは間違いだ」
「じゃあなんなんだよ?」

語気が荒くなって、ほとんど喧嘩腰だった。

「確かに葵はひとりでおまえを生んだ。だけど理人を胸に抱いた時、欲が出たって」
「はぁ?」
「父さんにこの子を抱かせたいと思ったって言ってた」
「……勝手な女、最悪」

アルバムのなかで微笑む母親は、すごく幸せそうに見えたのに。

「確かにそうだな。だって葵と父さんはただの幼なじみだったから」
「は? 意味がわかんねぇよ」
「でもずっと想いあっていた、すれ違っていただけで。だから小さなおまえを紹介してもらったときは嬉しかったよ」
「どこまでお人好しなんだよ、バカか」

どうしようもない世間知らずなんだ、この人は。

「その時葵が言いにくそうにおまえの名前を教えてくれたんだ。すごく申し訳なさそうに」
「だから意味わかんねーって」
「泥棒したって白状した。ただの友人のはずの父さんの名前から、おまえに名付けるために一文字盗んだって」

何の話、してんだ?

「父さんにそれを伝える気もなかったらしくて、勝手にごめんって謝られたよ。おまえの名前は葵が付けたんだ、理人」

おっさんの強い目力のせいで、もうそれ以上悪態をつくこともできなかった。
母さんは顔を覆って、キッチンの奥に消えてしまった。

「どうか考えて欲しいんだ。その時の葵や父さんの気持ち、それから今母さんが泣いている理由を。想像して欲しいんだよおまえに。葵が死んでおまえが父さんに託されたんじゃない。赤ん坊の名前を知って胸に抱いたとき、父さんは葵に言った。この子の父親になりたいって」

ベビーベッドから、寝起きのユキが愚図る声がした。
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