きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「複雑な心境だって正直あった。でも生半可な気持ちじゃないってことをおまえたちに伝えたかったんだ。それを形にして、初めての結婚記念日に渡そうと思っていた」

もしかして、あの本のことだろうか。

「それがなんで俺の手に?」
「……叶わなかった。でも棺に入れようとは思わなかったんだ、押し付けるのは不本意だったし、引かれたらどうしようって不安もあったから」

懐かしそうに細めた目尻に、幾つもの微かなシワができていた。

「代わりに父さんがプレゼントした服を入れたんだ。通勤で使う電車の冷房が効きすぎるっていうから普段から着ていたものだけど、訳のわからない本なんかよりよっぽどいいだろう?」
「母ちゃんにも不要だったもんをよく俺に渡せたよな」

隣の部屋で母さんがユキをあやしてる。

「いや、父さんあの時考えたんだ」
「あの時?」
「事故の後、葵は数日意識がしっかりしていて」

口元が微かに震えているような気がした。

「その時、言ったんだ。あの子を助けることができてよかったって。助けられずにいたら、私はこれからの人生をずっと後悔して生きることになったって」

俺の記憶にはない母親の声が、今この人には鮮明に聞こえているんだろうか。

「だから、あの本を理人に委ねた。もしかしたら大きくなったおまえの、おまえたちの標になるときがくるんじゃないかって」
「しるべ?」
「いいんだ、わからなくても。もう少しだけそのままで。子供でいていいんだ」

この人の言ってることが、なにひとつ理解できない。

それからの長い謹慎中に、悪い頭で自分なりにいろいろ考えた。
あれはあの人が書いた。
量産されたものじゃないってことだ。

でもだったらどうして神崎さんはあの時、俺と同じ本を探しているだなんて言ったんだろう。なくなったページの内容をしっているようだった。

ただの勘違いなのか……でも確信を得た顔をしていたのはどうしてなのか。
みどりさんなら何かわかるかもしれないと言って俺の手を引いたくらいだ。

何かヒントはないかと、古びたアルバムを引っ張り出してやみくもにめくってみた。

葵……俺を産んだ母親。
その人が、らっきょうみたいな体型の俺を抱いて楽しげに笑っている。

マチの広いトートバッグを肩にかけ、こっちを見て手を上げている。撮ったのはおそらくあの人。いってきます、と今にも口元が動き出しそうだった。
鮮やかなグリーンの服を羽織っている。

「緑のカーディガン……?」

神崎さんが無くして探していたものって確か。
部屋を飛び出して階下の書斎へ駆け込んだ。

「なぁ、母ちゃんに姉妹いない?みどりって名前の人」

大きな手がかりを見つけたという手応えがあったのに、あの人はパソコンのキーボードを触っていた手をちょっと止めたくらいの反応だった。

「いや、葵は確か一人っ子だったはず。その名前にも聞き覚えがないな」
「じゃあ一ページだけなくなってんのはなんでだよ、あのページどこ行ったんだよ?」

特に普段と変わらない態度に、苛ついて仕方ない。

「あぁ、それはあの時葵が……とっくに捨てられたものと思ってたが」
「捨てられてなかったとしたら?」

それから15年が経って、なんらかの形で神崎さんの手に渡った可能性もある。

「なくなったページの内容を知ってたんだよ彼女。たぶんそのみどりって人から受け取ったんじゃないかと思うんだけど」

そう言ったら、椅子に座ったままくるりとこっちに体を向けて、おっさんはじっと俺をみつめてきた。

「……なんだよ」
「もしそうだとしたら、あの子に教えてあげなさい」

ふいに訪れた沈黙を破ったその声は穏やかで、しっとりと暖かかった。

「あの子は前にうちに遊びに来たことがあったね。彼女の名前を知ったとき、父さんは特に驚かなかった。それは、いつかこんな日がくるかもしれないと思っていたからなんだ。もし君たちに必要なことなのだとしたら、お母さんがおまえとあの子をきっと巡り合わせるはずだって」

呆れる。
この人はどこまで夢想家なんだろう。でもなんでこの人の声は、胸の内側をいちいちこんなにも揺さぶるのか。

「だからおまえが教えてあげなさい」
「……何をだよ?」
「あのページの続きのことを。理人が読んだままを」
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