きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「……できなくて」
「え?」
「手が震えて……」
「どうして?」
問いかけても、久住君は返事をしなかった。
「もしかして、あの日……」
「それは関係ない」
もしかしてあの日、彼は何か大事にしていたものを捨ててしまったんじゃないだろうか。
「私じゃ……お兄ちゃんの代わりにはなれないよ」
いっぽ歩く度にボロボロとメッキが剥がれ落ちて、弱くていびつな心が剥き出しになってしまいそうだった。
久住君の代わりになれるわけがないとわかっていながら、それでも弟君を抱き上げた。
ちいさな体をぎこちなく胸に抱いて、いつか私を慰めてくれた久住君の手の感触を思い出しながら頭をなでた。
湿ってフクフクした赤い頬に鼻を寄せて、これは世界共通の愛してるのサインなんだよって、適当な思いつきなのに心のなかでつぶやいてみた。
目を閉じて、泣いてる弟君の魂の祈りみたいなものを必死に聞き取ろうとしたけれど何にも聞こえない。
だけどあかちゃんの甘酸っぱい匂いは、しわしわのこの心を捉えてなかなか離してはくれなかった。
その香りをみっともないくらい思い切り吸い込んでしまったのは、久住君がなくしてしまった匂いだと思ったから。
「……もういいよ」
「よくない」
「もういいから!」
泣き止まないあかちゃんを下手くそに抱いたままの私は、気づくと彼に抱きしめられていた。
驚いて、微動だにできなかった。
それはまるで、日溜まりに干されたお日様の熱がこもったままのブランケットに包まれているみたいだった。
自分を脅かしていたものすべてから遮断され、大胆なほどに世界を隔離したその場所は、みっつの体温と鼓動がこだまして共鳴するだけの空間だった。
何かの気配がして、足音が聞こえた気がした。
エネルギーに満ちたうねりが、すぐそばで夏の雲みたいに沸き立つのがわかって、艶々の芝生に寝転んだときの青い匂いがした。
私たちを愛してくれた誰かの、焦がれるほどによく知っている甘い香りを確かに嗅いだ。
弟君は久住君のシャツの胸のあたりを小さな手で強く掴んで、そこに顔をうずめてる。
声にならない声で、やっぱりお兄ちゃんを懸命に呼んでいたんだ。
「久住君の手は、汚れてなんかない。その手はおっきくてあったかくて、優しいよ。今までどれだけ助けてもらったか、わかんないくらい」
あの雨の夜、私のために迷いなく拳を振りかざしてくれた。その手が小さく震えてる。
今泣いていいのは、私なんかじゃない。
久住君は何も言わないで弟君を抱き上げると、なくしたものをやっと探し当てたみたいに強く腕に抱いて、そのすべてに頬擦りした。
泣き止んだ弟君は白いふっくらした両手で彼の髪に触れて頬に触れて、耳に触れて鼻をつまんで、お兄ちゃんを点検しているみたいに見えた。
「よかったね。お兄ちゃんいたね。壊れてなかったね」
久住君は弟君を抱いたままその場にうずくまり、声を殺して泣き出してしまった。
できることならその悲しみの欠片でもいいから、分けて欲しい。
でもさっきカラオケボックスで優しい久住君にわざと暴言を吐かせるような真似をさせてしまったことを、ずっと後悔してた。
クラスメートの前で悪役になることで、みんなの意地悪な気持ちに歯止めをかけようとしてくれたこと。
賭けようぜと言いながら、ほんとうは早くここから逃げろと伝えたがっていたこと。
全部全部、なにもかもはじめから彼の優しさだと気づいていた。
でももう今は、ありがとうと伝える資格さえ自分にはないと、思い知ったあと。
「……久住君。わたし引っ越すから、もう2度とあなたたちを傷つけたりしないから」
その場から駆け出して、久住君の家族のこれからの幸せを願った。
彼を悲しませるものがこの世からいっこでも消えてなくなりますように。
歯を食いしばりながら精一杯祈ったんだ。
「え?」
「手が震えて……」
「どうして?」
問いかけても、久住君は返事をしなかった。
「もしかして、あの日……」
「それは関係ない」
もしかしてあの日、彼は何か大事にしていたものを捨ててしまったんじゃないだろうか。
「私じゃ……お兄ちゃんの代わりにはなれないよ」
いっぽ歩く度にボロボロとメッキが剥がれ落ちて、弱くていびつな心が剥き出しになってしまいそうだった。
久住君の代わりになれるわけがないとわかっていながら、それでも弟君を抱き上げた。
ちいさな体をぎこちなく胸に抱いて、いつか私を慰めてくれた久住君の手の感触を思い出しながら頭をなでた。
湿ってフクフクした赤い頬に鼻を寄せて、これは世界共通の愛してるのサインなんだよって、適当な思いつきなのに心のなかでつぶやいてみた。
目を閉じて、泣いてる弟君の魂の祈りみたいなものを必死に聞き取ろうとしたけれど何にも聞こえない。
だけどあかちゃんの甘酸っぱい匂いは、しわしわのこの心を捉えてなかなか離してはくれなかった。
その香りをみっともないくらい思い切り吸い込んでしまったのは、久住君がなくしてしまった匂いだと思ったから。
「……もういいよ」
「よくない」
「もういいから!」
泣き止まないあかちゃんを下手くそに抱いたままの私は、気づくと彼に抱きしめられていた。
驚いて、微動だにできなかった。
それはまるで、日溜まりに干されたお日様の熱がこもったままのブランケットに包まれているみたいだった。
自分を脅かしていたものすべてから遮断され、大胆なほどに世界を隔離したその場所は、みっつの体温と鼓動がこだまして共鳴するだけの空間だった。
何かの気配がして、足音が聞こえた気がした。
エネルギーに満ちたうねりが、すぐそばで夏の雲みたいに沸き立つのがわかって、艶々の芝生に寝転んだときの青い匂いがした。
私たちを愛してくれた誰かの、焦がれるほどによく知っている甘い香りを確かに嗅いだ。
弟君は久住君のシャツの胸のあたりを小さな手で強く掴んで、そこに顔をうずめてる。
声にならない声で、やっぱりお兄ちゃんを懸命に呼んでいたんだ。
「久住君の手は、汚れてなんかない。その手はおっきくてあったかくて、優しいよ。今までどれだけ助けてもらったか、わかんないくらい」
あの雨の夜、私のために迷いなく拳を振りかざしてくれた。その手が小さく震えてる。
今泣いていいのは、私なんかじゃない。
久住君は何も言わないで弟君を抱き上げると、なくしたものをやっと探し当てたみたいに強く腕に抱いて、そのすべてに頬擦りした。
泣き止んだ弟君は白いふっくらした両手で彼の髪に触れて頬に触れて、耳に触れて鼻をつまんで、お兄ちゃんを点検しているみたいに見えた。
「よかったね。お兄ちゃんいたね。壊れてなかったね」
久住君は弟君を抱いたままその場にうずくまり、声を殺して泣き出してしまった。
できることならその悲しみの欠片でもいいから、分けて欲しい。
でもさっきカラオケボックスで優しい久住君にわざと暴言を吐かせるような真似をさせてしまったことを、ずっと後悔してた。
クラスメートの前で悪役になることで、みんなの意地悪な気持ちに歯止めをかけようとしてくれたこと。
賭けようぜと言いながら、ほんとうは早くここから逃げろと伝えたがっていたこと。
全部全部、なにもかもはじめから彼の優しさだと気づいていた。
でももう今は、ありがとうと伝える資格さえ自分にはないと、思い知ったあと。
「……久住君。わたし引っ越すから、もう2度とあなたたちを傷つけたりしないから」
その場から駆け出して、久住君の家族のこれからの幸せを願った。
彼を悲しませるものがこの世からいっこでも消えてなくなりますように。
歯を食いしばりながら精一杯祈ったんだ。