きみが空を泳ぐいつかのその日まで
戸惑って固まっていた足が、ふらふらとその泣き声に吸い寄せられた。
お兄ちゃんに笑いかけて欲しくて、抱っこして欲しくて泣いているんじゃないのかな。

それなのに、久住君はベビーカーの安全ベルトを嵌めるとすぐにそれを押して歩き出した。

「悪い、そういうことだから。じゃあね」

スタスタと行ってしまう。
弟君の泣き声がいつまでもどこまでも響いて、いたたまれなくなった。

「待って!」

無心で駆け出して、気がつくと無理矢理彼にあの本を押し付けていた。

「なんだよこれ」

それを見て、彼はうんざりした声をあげた。

「いらねーよ、こんなの」
「そんな……さっきから久住君は、思ってもないことばっかり」
「ほっとけよ!」

本を放り投げた久住君のこわい声でまた泣きだした弟君を、思わず奪うように抱き上げてしまった。

「お願い、ちゃんとみてあげて?」

見知らぬ他人に抱っこされ、体をのけ反らせて抵抗するあかちゃんを落とさないようにするので精一杯。

あかちゃんて、思ったより重い。ふわふわなんかしてない。命がぎっしり詰まってる。足を踏ん張らなきゃそれを守れない。

「ほら、私じゃダメなんだよ」
「なにやってんだよ」
「だって、こんなの変でしょ? お兄ちゃんじゃなきゃダメだってわかってて、なんで」

久住君はため息をついてそこから一歩前に出た。

「……違うんだって。いいから座らせて」

言われた通り弟君を座らせると、涙でぐちゃぐちゃのまるい顔に向かって彼は長い息を吹き掛けた。

おでこにかかる細くてまばらな前髪がふわりと浮いたことに驚いたのか、弟君は一瞬泣き止み、目をまっすぐにつぶってその感触を一心に味わっているみたいだった。

「着込ませすぎなんだよ母さんは。電車の中が冷えると思ったのかも」

久住君は小さな足からすぽんと靴下を抜き取って、羽織っていた長袖のカーディガンを脱がせ肌着をパタパタさせると、その中に夜風を送り込んだ。

「暑かったんだよな、ユキ」

弟をみつめる柔らかな微笑みには、欠片ほどの嘘もなかった。

弟君は、口を一文字に結んだまま久住君の目をじっとみつめていた。それから無意識に小さな手で彼の髪を掴むと、私の顔を瞬きもせずに眺めた。

ぐすんぐすんひっくひっくと、大泣きの余韻を残した潤んだままの瞳は、そのうち久住君の襟元に光る華奢なペンダントトップに釘付けになって、それを掴んで口のなかにいれようとした。

「ダメだよ、あんぷしちゃダメ!」

食べちゃダメってことを言いたかっただけなのに、咄嗟にそんな言葉が出てきて自分でもビックリした。
しかもやっと泣き止んだ弟君はわたしの声に驚いて、また泣き出してしまった。

「その言葉……なんで知ってんの?」

久住君は、その単語に聞き覚えがあるみたいだった。

「わかんない」

そんな答えしかできないことが、情けなくてうつむいてしまう。

「母ちゃんのこと覚えてんの? 一歳だったろ俺たち。なのになんで?」

久住君の痛いほどの視線を、受け止めることができなかった。

「ごめん、ほんとにわからないの。でも……」

なんだろう、その言葉がひどくいとおしかった。

「弟君が泣いている理由を、考えてあげてほしい。お願い、無視しないで」

何かを思い出せそうで思い出せないことも、もうどうでもよかった。

弟君の涙に唯一応えられるのは君だよと、久住君に伝えたいだけなの。
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