片思いー終わる日はじめる日ー
 ドア口でかたまったまま部屋のなかを見回してみるけど、やっぱりだれもいない。
「ぇと……」
 どうしよう。
「こっち来いよ。ここは明るい」
 声は、こたつ板みたいなキャンバスの裏から聞こえる。
 授業では見ないサイズだ。
「それ、赤根(あかね)、の……?」
 (ばく)が白衣で筆を拭きながら立ち上がった。

「麦でいいよ……」

 きゃぁぁぁぁぁ。
 聞こえてた。
 聞こえてたよ、どうしよう。

「ほれ。先生様がやさしいうちに、とっとと来て座れ」
「――――はい」
 ひらひら振られている左手の親指に、ぽっちり青い絵具。


「――ぁ。そうか……」
 思わずつぶやいたら
「うん?」
 麦がキャンバスからふり向いた。
「…どれ? できたか?」
「…かも」
 あたしがノートに向かっている間、麦はキャンバスに向かっている。
 開け放した窓から聞こえてくる遠い列車の音。
 おしゃべりなあたしが、真剣な麦の世界をこわしたくなくて黙ってる。
 隣にいられるのがうれしくて、黙ってる。
「どれどれ」
 緊張で背筋がぴんと伸びるあたしの机の上に乗り出すようにして、麦がノートをのぞきこむ。
「うん、よくできました」
 よかったぁ。
「じゃ、次は応用、いってみますか。そっちのほうがテストには出そうだし」
「ぇぇぇぇーっ」
 叫ばないように、(てのひら)のなかにもらした小声の弱音に麦が笑った。
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