廓の華


 かすみやに売られてから花街を出るのが初めてだったので土地勘はないが、久遠さまの話では水路を素直に辿れば迷わず着けるらしい。

 髪を結う彼は、紺色の髪紐を口にくわえている。


「久遠さま、これを」


 髪をまとめるときに使う香油を貸した。毎回見送る前にしていたやりとりも、ここで行うのは最後だ。向こうも同じことを考えたらしく、緩やかに口角を上げている。

 やがて、久遠さまは夜の闇と同化する黒の羽織りを肩にかけ、目線を合わせながらささやいた。


「夜明け頃においで。君を待っている」


 別れ際に何度目かわからない口づけを交わす。

 紅を引かずともぷっくりとして熱を持った唇に、久遠さまは静かに目を細めた。


 襖の向こうに消えていく広い背中を名残惜しく見つめる。普段なら寂しさが込み上げるが、今日の気分は高揚している。

 真っ暗な部屋にひとり残り、目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、出会ってからの記憶だ。

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