不倫


「泊まって行こうか」
 シーツにくるまって壁に寄りかかっている秋子を見ながら、沢田が何気なく尋ねた。1泊分補償金プラスの金額を、沢田は部屋をとる時に支払っていた。それが勿体無いなどどさもしい気持ちは沢田には無い。東京と仙台、実生活の場所から遠く離れているのだという安堵感が沢田にそう言わせた。その言葉を受けて秋子はひどく迷った。
「旦那に叱られるかな」
 夫は会社から帰ると子どもを迎えに実家に行くことになっている。今日は土曜日なので、残業をしていなければ既に子どもと共に自宅へ帰り着いている頃だ。秋子は迷ったまま返事をせずに沢田をみつめた。
「無理にとは言わない」
 コルクスクリューを丁寧にねじ込みながら、沢田は秋子に笑顔を返した。秋子は沢田の手元に視線を移した。頭の中に外泊の為の理由をいくつか思い浮かべたが、どれもぎこちなく、取って付けたような言い訳ばかりに感じられた。仙台に大学時代の女友達が居ない訳では無いけれど、今更彼女たちの名前を持ち出すのは気が進まない。どうせなら最初から誰かを当て馬にして泊まることにしておけば良かったと悔やまれた。だが秋子は、迷う心とそれ以上に沢田と
一晩過ごしたい気持ちにしっかりと背を向けた。何よりも子どもが秋子を待っていることが秋子を東京へ引き戻そうとしている。夫では食事の要領も風呂も入れ方も分かるまいし、秋子でなくては寝付かない。
 ボトルから抜けたコルクをスクリューから外している沢田の横顔は、秋子がどんな返事をしようが構わないと言っているようだ。沢田は秋子が何も言わないので、返事はノーだと受け取った。
「俺は泊まっていこうと思う。明日は日曜だし。チェックアウトしたら夕方まで町を散策して最終で帰る。もしかしたらもう1泊して月曜の朝に仕事に間に合わせて新幹線に乗るかもしれない」
「一緒にそうできたらどんなにすてきかしら」
沢田はグラスにワインを注ぎ、それをベッドの秋子の足元に置いた。秋子はそれを倒さないように手を伸ばして取った。一口飲んだが元々ワインがあまり好きではない彼女は顔をしかめた。
「だめ。私ワインの味ってわかんないわ。あんまり美味しいと思えない。酸っぱいような苦いような渋いような・・・これが美味しいワインだと言われたら、そう信じるしかないけど」
「そうか。ビールの方が良かったかな」
 窓側のベッドに席を移していた沢田は、手を伸ばし、溶けかかった氷で袋の中が水浸しになっているその上から、汗をかいた缶ビールを一本秋子に放った。それをきれいに受け取ってリングプルを引くと、プシュッという音と共に泡が少し溢れ出た。泡が落ち着くのを待ち一気に引っ張った。
「純也は血液型何だったかしら」
「俺はO型だよ。それがどうかしたのか」
「良かった、主人と同じだわ」
「何だよそれ」
「子どもができても疑われないってこと」
「おいおい冗談はよせ」
「冗談よ、もちろん」
 沢田は子どもが好きではない。煩わしくていやだと言う。
 大学時代同じスーパーでアルバイトをしたことがあった。或る時、店の中で100円玉を落としたと言う5、6歳の男の子の為に、2人して陳列台の下などを探してやった。なかなかみつからない。沢田はふてくされたようにしゃがみ込んで探していたが、暫くすると、ほら坊主あったぞ、と100円玉を男の子に差し出した。その子は何も言わずに受け取った。秋子はその100円玉は沢田のポケットマネーだと知っていたが、みつかって良かったねと男の子の肩を叩いた。
「あんなのに付き合ってられっかよ。落としたのは嘘かもしんねぇんだぜ」
 少年の後ろ姿を見送りながら乱暴に吐き捨てるように言った沢田の顔を、今秋子は思い出していた。もし秋子が沢田の子どもができたと言ったなら、あの時のあの顔で、堕ろせと言うかもしれない。沢田とは体だけの関係でいるのが良いと秋子は思った。
「自分の子どもは可愛いわよ」
「生まれてみなきゃわからん」
「結婚したらできるわよ」
「結婚はまだしない」
「婚約したんでしょ」
「口約束さ」
「相手の女性が可哀想」
「そのうち向こうが愛想尽かして離れて行くさ」
 沢田にはひどく冷たい一面がある。それなのに何故こうして付き合っていられるのだろうと秋子は考えた。沢田は秋子の夫と血液型も年齢も同じなのに性格は正反対だ。いいや、冷たいという点は共通している。ただその冷たさの現れ方が沢田は動であり、夫は静だ。沢田が冷たいから、熱くならない男だから、秋子も自分をセーブしてこの関係にのめり込まずにいられるのだろう。
 350mlは女の胃にとってはかなりの量だ。ゲップをこらえてツーンと鼻に来たので涙が出て来た。シーツで目を拭う秋子を見て、沢田は笑った。
「我慢せずに出せば良いだろう」
 かと言って平気な顔をして人前で大きなゲップをするような女ではない。沢田は良く知っている。秋子はいつでも親しき仲にも礼儀ありなのだ。
 秋子はベッドの上に脚を投げ出したまま、体を折り曲げてベッドサイドテーブルに埋め込まれた時計を見た。4時半を少し過ぎていた。
「駅迄送るよ」
「ホーム迄来てくれる?」
「いいよ、付き合うよ」
 シャワーを浴び服を着て化粧を直し、忘れ物が無いか確認し、秋子は沢田の後に続いて外へ出た。
「今度は、どんな口実を作ることになるのかしら」
「今度はいつになるのかな」
「私たちって2ヶ月に一度ね」
「1年に一度だと七夕なんだけどね」
「それじゃ我満できないわ、私」
 部屋にいる間は気付かなかったが、外に出てみると雨が降っていた。東北も梅雨明けが遅れているのだろうか。雨の中を足早に駅へ向かった。駅迄に道は僅かだが、2人はかなり濡れた。
「ホテルで傘を借りるべきだったかな」
「もう遅いわ」
 改札に横に並ぶ土産物店で秋子は笹蒲鉾を2箱買った。実家にと夫にだ。
「5時半てのがあるよ」
「それに乗るわ。それほど待たずに乗れて良かった」
「東京に電話は?」
「上野でする」
 沢田は入場券を買った。
 連れ立ってホームへ向かいながら2人はそれぞれ違うことを考えていた。秋子は家へ着いた時の自分を思い浮かべている。子どもを抱き上げ、夫に微笑みかける自分を。同窓会に出席しただけで帰って来たに違いない顔をしていなくてはならない。沢田はと言えば、これから過ごす自由な時間について考えていた。夜の繁華街に出るか本を読むか車を借りて足を伸ばすか・・・いずれにしろ2人の頭の中には次の出逢いを思いあぐねるようなものは少しも無かった。
 秋子が列車に乗り込もうとした時、沢田が後ろから、あ、と叫んだ。
「どうしたの?」
 怪訝そうに振り向く秋子の左耳を沢田が指差している。ハッとして手をやるとイヤリングが無い。右耳にはある。
「部屋にあるかしら」
「探しておくよ」
「バスルームかもしれないわ」
「探しておく」
 右耳のそれを外しジャケットのポケットに入れた。
「この次会う時に持って来て」
 秋子がそう言うと発車のベルが鳴った。お互いに軽く体に触れるとさよならも言わずに向きを変え、振り向きもせず沢田はホームを去り秋子は席に着いた。
                                         終
1986年7月
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