君の音に近づきたい

「だから、その、なんて言うか……」

その勢いはどこへやら、林君はまた困ったように短い髪を掻いていた。

「気にかけて、くれたんだよね? ありがとう」

見るに耐えなくなって、声を掛けずにいられなかったのだろうか。
きっと林君は、優しい人なんだろう。

「そういうんじゃないよ。僕も、落ち込んでる。だから」

自然に二人並んで歩き出す。

「自分で言うのも悲しいけど、僕には才能の欠片もないこと、よく分かっているんだ」

「そんなこと……」

自分の公開レッスンが終わったら、あまりのショックに逃げ出してしまった。だから、林君の演奏を聴いたわけじゃない。どんな言葉を掛けるべきなのか分からない。

「ピアノは、僕にとっては苦しいもの。それなのに、結局逃げることもできずに、こんなところに来てしまった」

気付けば1-Bの教室に着いていた。
まだ公開レッスンは続いているんだろう。教室には私たち以外、誰もいなかった。

「林君は、どうして音高に来ようと思ったの?」

陽射しが射す明るく静かな教室で、林君と向き合う。
私の問いかけに、一瞬表情をしかめて、そしてすぐにふっと笑った。

「本当に、情けない理由だよ。親にそうレールを敷かれていたから。ただ、それだけ」

その顔は笑っているのに、なんだかとても胸が痛む。
並んだ机の一つに腰を下ろして、楽しいことでも話すように軽い口調で続ける。

「母親がピアノ教師でさ。気付けばピアノを習っていて。気付けばこの道に進んでた。そこに、僕の意思はない」

「でも、林君だって好きっていう気持ちがどこかにあったから、ここに入学したんじゃない? そうじゃないと、練習続けられないでしょう? 練習頑張らないと、入学できないよ」

例え、お母さんに勧められていたのだとしても、そこに少しでも自分の気持ちが入っていなければ、こんなにも長時間向き合わなければならないようなこと、出来るはずがない。

「他に何も、僕にはないからかな。ピアノは下手だけど、でも他のことはもっとできない。自分でもよく分かってるから、そのレールに乗るのが一番ラクだったんだよ」

そう言って笑う林君に、結局私は何も言えなくなる。

「……そんな気持ちで入学したんだから、苦しいに決まってるよね。周りの人間とは、レベルも目指すものも違い過ぎて。こうして、残酷なほどに見せつけられる。さっき、舞台の上でピアノを弾いて、心底消えたくなった」

消えたくなった――その気持ちなら、少し分かる。

「だから、桐谷さんにこうして話掛けちゃったんだ。君を慰めるためじゃないよ。本当は、僕が桐谷さんと話をしたかったんだ」

そう言って微笑む。
への字になった眉毛に、落とされた肩。
優しげな雰囲気だからかな。余計に、そこに切なさを感じてしまう。
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