アリサ・リリーベル・シュタルクヘルトは死んだ
あの夜、アリーシャが行きたいと話したのは海であった。

「子供の頃から、絵本を読んで海があることは知っていたんです。いつか行ってみたいとも……」

そこで、オルキデアは新婚旅行先として人気の南西部の貴族御用達のリゾート地や、漁港や軍港もある南部の海辺の港町を勧めたが、アリーシャは頑として頷かなかった。
もっと近場でいいと言われて、オルキデアが連れて来たのは、屋敷から車で二時間程の場所にある小さな浜辺だった。

屋敷から持ってきたシートを浜辺に敷いて、近くに落ちていた石を重しにすると、オルキデアは荷物ごとその上に座る。

一度、アリーシャは戻って来ると、頬を上気させながら「あの!」と話しかけてくる。

「裸足になってもいいですか?」
「なってもいいが……」

オルキデアの隣に座ると、アリーシャはショートブーツとソックスを脱ぎ出す。
オルキデアの目の前で白くほっそりした足で砂を踏みしめながら感嘆の声を上げると、子供の様に悦に入っていた。

「足の裏で砂がザクザクして、不思議な感じです」
「怪我しないように気をつけろ。たまに流れ着いたビンやガラス片が落ちているからな」
「わかりました。気をつけます!」

マフラーと手袋を外して、オルキデアが持っていた自分の鞄に入れると、冬用ワンピースのロングスカートを捲り上げる。
波打ち際に向かって一目散に駆けて行ったのだった。

「全く……」

人の話を聞いていたのかいないのか、足元を気にしないアリーシャに呆れる一方、滅多に見せない愛妻のはしゃぐ姿に、オルキデアは注意出来なくなる。

足首まで波に浸かって、寄せては返す波をパシャパシャと水飛沫を上げながら蹴る。
波打ち際に打ち上げられた貝殻を見つけては興味深そうに指で摘んで、感嘆の声を上げる。
そんな愛妻の楽しそうな様子に、オルキデアまで心が弾んでくる。

なかなか見れない愛妻の可愛いらしい姿に微笑を浮かべると、自分の鞄から本を取り出して読み始める。
顔に潮風が当たって冷たいが、アリーシャと同様に厚手のコートやマフラーで厚着をしてきたからか、さほど寒くはなかった。
時折、屋敷から持参したコーヒーを飲みながら、自分と愛妻以外、誰もいない浜辺で読書をするのもいいものだ、と思いながらページを捲る。

しばらく、波打ち際で遊んでいたアリーシャだったが、やがて「喉が渇きました~」と言いながら、オルキデアの元に戻ってくる。

「どうだ? 初めて来た海は」
「想像していた以上に楽しいです! 」

アリーシャはカバンから水筒を取り出して、屋敷から持ってきた温かい紅茶を飲むと、次いでタオルを取り出す。
二人が寝てもまだまだ余裕がある大きなシートの上で膝を揃えると、砂がついた爪先や足の裏を拭き始めたのだった。
なかなか取れないのか悪戦苦闘する愛妻の姿を見たオルキデアは、「貸してみろ」と手を伸ばしてタオルを受け取る。

「俺が拭くから、膝の上に足を乗せろ」
「でも、海水に浸かって汚いですし、スボンも汚れますし……」
「また洗えばいい」

読みかけの本を鞄に仕舞うと、恐る恐る膝の上に乗せられた華奢な白い足の指の間をタオルで擦る。
切り揃えられた爪の周りの砂を落としていると、爪が薄紫色に着色されていることに気づく。
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