悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 耳を疑う発言に、イザベルは目を見開く。
 ジークフリートは学生鞄から一枚の手紙を取り出した。

「先ほど、リシャールから手紙を預かった。そこには君の心変わりを示唆する内容が書かれていた。今は婚約破棄も含めて考えていると。両家の事情もあるから、すぐには無理でも、折を見て僕に相談したいと」

 イザベルはくらりとめまいがした。

(リシャール、あなたは……本当にわたくしたちを結婚させたくないのね)

 この際、専属執事の事情聴取は後だ。
 ゲームのシナリオを踏まえるならば、婚約破棄のイベントはまだ先だ。ゲームの改変は少しに留めたい。

「その手紙の内容は、事実ではありません。これまで誘いを断ってきたのは、ジークを嫌いになったからではなく、わたくしの個人的な理由からです。どうか信じてください」

 どちらの話が真実なのかを見極めているのか、ジークフリートは微動だにしない。真顔のまま、考え込んでいる。
 これは最後の一押しが必要だと踏み、たたみかけるように言う。

「わたくしから婚約破棄することは考えられません。ジークから婚約破棄されるならともかく……」
「僕が……? それこそ、ありえない話だな」

 未来の可能性を一蹴され、イザベルは視線を落とす。
 ここは乙女ゲームの世界。現在、ヒロインは白薔薇の貴公子の愛を射止める「白薔薇ルート」を攻略中である。
 白薔薇ルートに欠かすことのできない婚約破棄イベント。薔薇のゲージが一定ラインに達したとき、断罪イベントが始まるのだ。

(今はその気がないのだとしても。いずれ、わたくしは婚約破棄される)

 イザベルは自分の未来を知っている。けれども、それをジークフリートに言ったとしても到底信じてもらえないだろう。
 窓の外を見やると、見慣れた大きな門を通り過ぎたところだった。木々に囲まれた正門からの道をまっすぐ進み、エンジン音が静かになる。
 車は、エルライン家の玄関前に横付けされていた。

「到着したようですね……」

 話は終わりだと言外に告げるべく、イザベルは立ち上がる。ところが、すぐに静止する声が届く。

「少し待ってくれ。渡したいものがあるんだ」

 イザベルが再び座り直すと、ジークフリートは側面のラックを開いて、中に入っていたものを差し出した。

「僕のことを嫌いではないなら、受け取ってほしい」
「……今回も赤の薔薇ですのね」

 受け取ると、懐かしい香りがふわりと広がった。
 見事に咲き誇るさまは、さすが大輪系だ。一輪だけでも圧倒的な存在感を放つが、今回は花束になっていた。

(ジークは、意外と赤い薔薇が好きなのかしら?)

 三本の薔薇に寄り添うように、カスミソウの白い花が引き立て役になっている。多すぎず少なすぎず、手土産にちょうどいいボリュームだ。
 蕾ではなく五分咲きなのも好印象だ。家に帰ってからの楽しみが続く。花束にくくられている、ピンクゴールドのリボンも可愛い。

(でも……わたくしには、白い薔薇は贈ってくださらないのね)

 白薔薇の貴公子から贈られた、白薔薇の花束。それを受け取ったのは形だけの婚約者ではなく、フローリアだった。
 その場面を思い出すと、心にさざ波が立つ。

(仕方ないわ。わたくしはヒロインではないのだから)

 これがきっと、悪役令嬢の宿命なんだろう。
 どこか緊張感を漂わせた婚約者と、手元にある薔薇の花束を見比べる。
 受け取った花束から視線を上げ、イザベルは最大限の感謝を伝えるべく、精一杯の笑顔を向ける。

「いつも素敵な贈り物をありがとうございます。大事に飾らせてもらいますね」

 ジークフリートは一瞬息を詰まらせたのち、ぽつりとつぶやく。

「君の笑顔の方が素敵だ」
「……は?」
「なんでもない」

 ジークフリートはさっと視線をそらし、イザベルは首をひねる。

(……さっきのは幻聴?)

 攻略イベントは着々と進行している。東屋での密会デートも終わったばかりだ。
 先ほどの言葉に深い意味はない。そう信じたい。
 ジークフリートが異性として見ているのは、フローリアのはずだ。あくまで、イザベルは幼なじみであり、妹のような存在なのだから。
 そう自分に言い聞かせる一方で、心が軋んだ。理性で制御できない感情が強くなり、抑揚のない声で不満をこぼす。

「……踊らないで」
「ん?」
「舞踏会では、わたくし以外と踊らないでくださいませ」
「……イザベル?」

 不思議そうに目を丸くするジークフリートを見て、失言を悟る。

「す……すみません。今のは忘れてください!」

 口に手を当て、己の失態を恥じる。

(ああもう、恥ずかしい。考えたことを、そのまま口に出してしまっていたなんて……!)

 羞恥で顔を覆っていると、ジークフリートが遠慮がちに手を伸ばす。
 イザベルの両手を優しくほどき、まっすぐと見つめてくる。視線を縫いとめられたように、ダークブラウンの瞳から目がそらせない。

「ひとつ、聞きたいことがあるのだが」

 言葉の響きは重く、自然とイザベルも背筋を伸ばす。

「な、なんでしょうか」
「僕は君を独り占めにしてもいいのだろうか? もし、イザベルがいいというなら約束してほしい。次の舞踏会で君と踊るのは僕だけだと」

 先ほどのセリフの逆バージョンだ。
 次の舞踏会は、レオンの生誕祭。お昼から屋外でパーティーがあり、夜は舞踏会が行われる。
 とはいえ、社交界のルールを考えると、簡単には頷けない。それは公爵家令息の彼も承知しているはずなのだが。
 沈黙を破ったのは、澄んだ水底のように静かな声だった。

「イザベル。どうか僕と踊ってほしい」
「……でも、それは……」

 触れ合ったままの指先が熱い。緊張でじんわりと汗が噴き出し、堪えきれずに自分から手を離す。
 物理的に距離が開いたことで、ふっと息が軽くなる。
 ジークフリートは余裕たっぷりの微笑を向け、イザベルの心をさらに揺さぶりにかかる。

「君が僕と同じ気持ちなら、ただ頷くだけでいい。君の婚約者は僕なのだから。何も心配は要らない」

 イザベルは瞬いた。ジークフリートは口をつぐんで返事を待っている。

(ていうか、フローリア様はいいの……?)

 もしや、けんかでもしたのだろうか。
 切実に二人の関係が心配だ。親密度のゲージは、イザベルの未来をも左右する。
 自滅エンド回避を狙うなら、悪役令嬢は身を引くべきだ。けれども、罪悪感の方が上回り、誘いを断ることに躊躇してしまう。
 返答に窮している婚約者を見て、ジークフリートは諦めたように視線を下ろす。続くため息に、彼を傷つけたと理解するまでに時間はかからない。
 イザベルは早口で言葉を返す。

「約束いたしますわ。当日は、ジーク以外とは踊りません!」
「……いいのか?」
「もちろんです。わたくしはあなたの婚約者ですもの」

 断言すると、ジークフリートは安心したように笑みをこぼした。

「楽しみにしている」

 ふわりと頭を撫でられ、イザベルは視線をさまよわす。いつもと同じ行動なのに、なぜか心がくすぐったいような気持ちになる。

(意識しないようにしていたけど、サロンのときといい、この甘い雰囲気はどういうこと……?)

 ジークフリートが恋する相手はフローリア。ヒロインならともかく、悪役令嬢にまで愛想をよくする必要はない。

(はっ……まさか、天然タラシの側面もあるの? 真面目ぶっておいて?)

 もし、本人が無自覚の行動だとしたら大問題だ。熱っぽく見つめられたら、大いに誤解されるに決まっている。
 好きでもないのに、純真な女性の心をときめかせるとは、なんて罪深い男なのだろう。

(これは婚約者として注意すべき……? いや、そもそもダンスに深い意味はないはず)

 他の男性と結婚が決まり、今までの思いを断ち切るため、最後の思い出としてダンスを申し込む女性も珍しくない。
 きっと、ジークフリートは配慮してくれたのだ。
 頭ではそう理解できるのに、心臓の早鐘はなかなか静まらなかった。
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