悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 舞踏会の会場は休憩している人が半分、踊っている人が半分となっていた。
 ピンクのドレス姿を探そうと会場を見渡す中、彩度の高い色が目に入る。

「あれは……ナタリア様?」

 鎖骨の露出を抑えたボートネックのドレスと手袋は、目立つスカーレット色。豊満な胸もここぞとばかりに強調するデザインだ。自信にあふれた彼女の性格をよく表している。
 ナタリアは赤ワインのグラスを手に取り、優雅な足取りで歩く。
 その先には、クラウドと話していたフローリアがいた。彼女の横を通り過ぎる途中で、ナタリアが体をよろめかせ、グラスに注がれていた赤い液体が大きく揺れた。

「……あっ……」

 揺れたワイングラスは、狙いすましたかのように、横にいたフローリアのドレスにかかる。
 一点の染みは徐々に広がり、フローリアの顔はみるみる青ざめていく。一方のナタリアはわざとらしく大げさに謝った。

「あら、ごめんなさい。大事なドレスがダメになってしまったわね。でも、ここはあなたみたいな人がいるべき場所ではないの。恥を知りなさい」
「……っ……」
「だいたい、庶民風情が生意気なのですわ。一度、殿方と踊れたからって、いい気にならないでちょうだい」

 言い返せずにいるフローリアはドレスを握りしめ、懸命に耐えていた。下手に口答えするべきではない、と知っているのだろう。
 その判断は正しい。気位の高いナタリアに反抗すればするほど、彼女の怒りはヒートアップするに違いない。この場は黙ってやり過ごすのが最善だ。

(それはそれとして……やっぱり、ナタリア様が悪役令嬢になってる)

 先ほどの嫌がらせは、ゲーム内のイザベルがしていたことだ。セリフもほぼ同じ。違う点を挙げるとすれば、ドレスぐらいだ。

(ん? ってことは、今のわたくしはただのモブキャラ? 自滅フラグの回避に奔走しなくてもよくなった?)

 もんもんと考え込んでいると、うつむくフローリアの足元に一粒のしずくが落下する瞬間が見えた。
 周りは遠巻きに見ている者が大半で、クラウドやジークフリートは眉を寄せているが、直接は口出しができないようだった。

(ゲーム内では、攻略キャラがかばってくれたけど……もしかして好感度が足りないとか?)

 本来、彼女はジークフリートと踊るはずだった。しかし、そのイベントは起きていない。となると、薔薇のゲージが下がっていると考えるのが自然だ。
 ジークフリートが踊らなかったのは、イザベルとの約束のせいだ。あのとき不満をこぼさなければ、こんな結果にはならなかっただろう。

(だけど、今は自分を責めているときじゃない……。誰も助けに来てくれないっていうのなら……)

 イザベルは無言のまま、ヒール音を鳴らして前へ進み出る。

「ちょっと、どいてくださる?」

 どこの生意気な女だと振り向いた野次馬の男たちは、声の主がイザベルだと知るや否や、さっと脇に避けた。
 すぐにできあがった一本道を悠然と歩き、立ち尽くすフローリアの前にかがみこむ。
 彼女の腰元にあるリボンをしゅるりとほどいて、ため息交じりに言う。

「こんなところで涙を見せるものではないわ。その綺麗な涙は、もっと効果的な場面に取っておきなさい。……ほら、こうすれば染みの跡は見えなくなるわ」

 リボンの位置を下にずらし、簡単に結び直す。染みの痕跡をうまくカモフラージュし、イザベルは立ち上がる。
 目線を合わせたつもりだったが、身長差があるため、どうしてもフローリアを見上げる格好になってしまう。
 フローリアはたれ目がちな瞳を見開き、なにか言葉を出そうと口をぱくぱくさせていたが、結局、声は喉元から先には出てこなかった。
 驚いた顔をしばらく眺めていたイザベルは、情けない顔でうつむく友人を笑い飛ばしてやりたくなった。しかし、陛下もいる公共の場で、それはまずい。
 ぐっと顔を引き締め、伯爵令嬢らしく強気な態度を保つ。

「以前は庶民だったとしても、今のあなたは男爵令嬢。その身分に恥じないよう、お作法やダンスも特訓したのでしょう? だったら胸を張りなさい。あなたに礼儀を教えたジークフリート様に恥をかかせないで」

 冷たく言い放つと、フローリアは弾かれたように顔を上げ、涙を指で拭った。

「……はい! ありがとうございます」
「このぐらいのことで、いちいち動揺していたらキリがないわよ。次からは一人でも立ち回れるようにしないと、やっていけないわ」
「ど、努力します……!」

 素直な言葉が返ってきて、イザベルは苦笑いする。

(まっすぐな性格は美点だけど。このままだと、貴族社会で生き抜くことは難しいでしょうね)

 けれども、社交界の乗り切り方を教えるのは後回しだ。
 会場の注目を一身に集めたイザベルは、成り行きを見守っていたナタリアに向き直る。

「ナタリア様。この場はわたくしに免じて、見逃していただけませんか?」
「……イザベル様がそうおっしゃるなら」
「ありがとうございます」

 納得しきれていない顔つきだったが、イザベルが腰を折ると、ナタリアはそそくさと回れ右をする。令嬢とは思えない速度で小さくなった背中を見つめていると、肩をぽんと叩かれた。
 横を見上げると、ジークフリートが困ったような笑みを浮かべていた。

「君が味方でよかったと思う」
「まあ、それはどういう意味ですか?」
「悪い意味ではない。……さて、イザベル。ワルツもラストだ。僕と踊ってもらえるだろうか?」

 うやうやしく頭を垂れた姿に、ときめかない乙女はいない。
 乙女ゲーム界の誰もが一度は想像するであろう、憧れのシチュエーションが今、目の前にある。画面越しではなく、現実として。
 イザベルは嬉しいやら恥ずかしいやらで、声がうわずってしまう。

「よ……喜んで」

 ジークフリートが両腕を上げて構える。イザベルは右手を伸ばし、彼の左手をつかむ。指先が触れると、ぎゅっと握りしめられて鼓動が速くなった。
 視界の端でフローリアと目が合い、彼女が小さく頷く。励まされているようで、自然と背筋が伸びた。

(ヒロインを差し置いて……っていう状況は気が引けるけど、ジークの気持ちには応えたい)

 左手を彼の肩にそっと載せて、まっすぐに見つめ合う。熱を帯びた瞳に自分の姿が映し出される。
 初等部のときは同じくらいだった身長も、とうの昔に追い越された。今日も高いヒールを履いているものの、やはり身長差は埋められない。

(こうやって一緒に踊るのだって、別に初めてではないのに。何だか緊張するわね。ちゃんと踊れるかしら……)

 静かに降り積もる雪原を連想させるバイオリンの音色に合わせ、ジークフリートが動く。イザベルも促されるようにして後ろ足を引き、バックしながら右回りにステップを踏む。両足を揃えた後は、今度は前に進み、左回りにターンする。
 初歩のステップは、背伸びをしたヒールと身長差を考慮したものだろう。けれど、長年のパートナーだけあって小回りに誘導してくれるので、身長が低いイザベルでも無理なく踊ることができる。
 何より彼のホールドは安定感があり、優美で軽やかなステップは楽しい。雪解けを喜ぶ春の妖精のように、ひらひらとドレスが踊る。

(いずれ、離ればなれになる運命だとしても。……今夜だけは夢を見てもいいわよね?)

 息苦しくなる気持ちに蓋をし、イザベルは優しい婚約者に微笑み返した。
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