悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 言われた意味がわからず、まじまじと見つめる。

「……連れ戻されたかったのですか?」

 低い声で問いかけられ、イザベルはぶんぶんと首を横に振った。
 てっきり、引き止められるのかと思っていただけに、肩透かしを食らった気分だ。
 リシャールは微笑み、胸に手を当てて補足する。

「心配には及びません。伯爵令嬢が従者も連れずに外を出歩くなど……本来は厳禁ですが、今回のことは他言いたしません」

 おかしい。見た目はマリア像の微笑みなのに、非難が混じった圧力が勝っているせいで、彼の周りに冷気がゆらめいているように見える。
 いやいや、これは錯覚だ。きっと、昨日夜更かししてロマンス小説を読んでいたせいで、目が疲れているのだ。そう判断したイザベルは目をこする。
 けれど、瞼を開けた先の景色に変化はなかった。目の前の執事からは、笑顔で隠しきれない不穏なオーラがにじみ出ている。
 逃げなければならない。
 第六感が告げる危険信号に、どこかに逃げ場所はないかと辺りを見渡す。

「ご安心ください。奥方様にも内密にいたします」

 その単語にびくりと肩が揺れた。イザベルの母親は温厚な反面、一度逆鱗に触れると、手がつけられない。
 火山が噴火したように、これまでためていた不満が放出されるのだ。
 教師のように丁寧な言葉遣いで、ひとつひとつ説教される。さらに、自分の悪かった部分を復唱させられるため、肉体的にも精神的にも疲弊する。
 幼いながら、一番おそろしいのは、めったに怒らない人を怒らせときだと知った。
 昔の恐怖に戦慄しながら、イザベルは震える唇を開く。

「な……何が目的? なんの見返りもなく、リシャールが協力してくれるなんて考えられない」
「…………」
「あ……えっと、今のは悪い意味じゃなくて……素朴な疑問というか」

 我ながら言い訳が苦しい。
 視線が右往左往していると、薄く息を吐く気配がした。
 目が合った翡翠の瞳は一瞬、悲しそうに揺らいだ。

「お忍びに付き従うのは、お嬢様専属執事としての勤めです。つまり、職務の範囲ですので、見返りは求めていません」
「……そ、そう……」

 見逃すというのなら、その言葉に素直に甘えよう。おそらく、今は余計なことは考えるべきではない。
 そう自分に言い聞かせていると、さっきの台詞に引っかかる言い方があったのを思い出す。

「……ちょっと待って。リシャールもついてくる気?」
「もちろんです。お嬢様に、それ以外の選択肢はありません」
「……なるほど……?」

 納得できるような、理不尽なような。
 だが、よくよく考えれば、彼が一人で送り出すわけがなかった。彼は過保護な執事だ。
 小雨が降り出したと見上げれば、すぐに傘が視界を防ぎ、雨粒を弾く。試験を頑張ったときは、ご褒美として高級お茶菓子が差し出される。
 毎度小言はあるが、基本的には甘いのだ。今回だってお忍び旅のお供を買って出てくれたわけだし。

(うーん。ヤンデレかと思っていたけど、こじらせ系?)

 ますますお近づきになりたくないタイプだ。しかし、主従関係がそれを許さない。加えて、婚約問題では敵対関係にある。なんて難儀な関係だろう。

「及ばずながら、私も貴族出身の友人という設定で変装してみました。眼鏡もかければ、街へ出てもすぐには気づかれないでしょう」

 めずらしく私服だと思っていたら、変装だったらしい。ズボンのポケットから細身のフレームをかけ、リシャールは得意げだ。
 かくして町娘風の主人と、貴族風の友人を装った執事見習いのお忍び二人組は、今ここに結成された。
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