惡ガキノ蕾
~翌日、診療所にて~
「いっ…」
昨日の夜倒れた時に捻った《ひねった》左足は、朝になって洗濯物を片付ける頃になると、靴下の上からでも腫れてきているのが判る程に悪化していた。あの後、家に戻って来る迄はまだなんとか歩けたのに、今では床につけてちょっと力を入れただけで動きが止まる。昨晩《ゆうべ》騒ぎを聞きつけ直ぐ様《すぐさま》火事場に馳せ参じたという一樹は、あまり寝られなかったのか、今朝は朝ご飯も食べずにとび出して行った。優か瑠花の家にでも泊まったのか、珍しく双葉も帰ってこないし、こうなりゃ自力で何とかするしかないみたいだ。片足で乗れるのか心配だった自転車も、やってみると案外問題無い感じ。大丈夫、いける。「よっしゃ!かかってこい!」気合いを入れて、凜のお母さんが勤める診療所に向け、あたしは右足一本でペダルを踏み込んだのだった。パ―カ―の上にユニクロのウルトラライトダウン。十二月にしては薄着の筈なのに、二・三分走っただけで、おでこにうっすら汗が滲んで来た。凜のお母さん=《イコ―ル》律っちゃんが勤めている診療所は、内科と整形外科が一緒になっていて、年はきむ爺よりも上らしいけど腕がいいと評判の院長のお陰なのか、待合室は何時《いつ》来てもギュウ混みの満員御礼状態。まあ二階建ての建物自体もそれ程大きくはないんだけど、それでも三・四十人は入るだろうか。毎度ここに来る度、変わらぬ患者の多さに自分が健康である事の有り難み《ありがたみ》を再認識させられる貴重な場所でもある。やっとの事で診療所に着くと、駐車場に入りきらなかったのか、一台の車が駐輪場の前まではみ出して停めてあって、自転車を停めるのに苦労させられた。PUMAのマ―クのあの猫みたいなやつがボンネットに付いたその車に舌打ちしたあたしは、取り敢えずドアが凹む位の蹴りを入れる事にした。──嘘。
診療所の中は椅子に座り切れず通路に立っている人が何人も居て、相も《あいも》変わらぬ盛況ぶり。ケンケンで診察券を出しに行くあたしの為に、受付の前に出来た数人の人垣が勝手に割れてくれた。その様子に、優越感にも似たくすぐったい気持ちを感じてしまい恥ずかしくなったあたしは、顔を伏せたままその間を進む。
「あれっ、はなみじゃない。どうしたの?」
早速、受付の中から目敏い《めざとい》律ちゃんが声を掛けてくる。
「うん。ちょっと捻っちゃったみたい」
「…そう。今からだとちょっと待つかなぁ。…大丈夫?痛む?」
「あ、大丈夫、大丈夫」
受付から出て来てくれた律ちゃんの視線が、足を看て《みて》からあたしの後ろへと動いて止まる。釣られて振り返ると、軽く五人か六人は座れそうな受付前の大きなソファ―に、男が三人、間隔を空けてゆったりと腰掛けている様子が見て取れた。三人組の真ん中は結構なじいさんで、左右には律ちゃんと歳がそう変わらない位に見えるおじさんが二人。並びだけで言うと、水戸黄門的なあの感じ。じいさんの横に助さんと格さんみたいな、あれね。あ―水戸黄門が分かんないって人は、ちょっとググって見て。でも言っとくけど、似てるのは飽く迄《あくまで》並び順だけで、目の前の三人組はどんだけ贔屓目《ひいきめ》に見た処で、正義の味方黄門様御一行とは言い難い面々。だって、パンチパ―マとスキンヘッドの助さんと格さんに、そもそも人間なのか?と疑う様な仁王様を更に人相悪くしたような黄門様だったから。もしこの人達が一般人であるなら、あたしは一般という言葉の意味について、もう一度考え直さなければならない位。
「すいません。患者さんも増えてきたんで、悪いんですけど付き添いの方は立って待っていて貰えませんか?」
その三人に向けた律ちゃんの、笑顔ではあるけどはっきりしっかりした口調。未だ《いまだ》三人の方を振り返ったままだったあたしは、固まってる顔を無理矢理笑顔に変えながら、(そうだ。この人はこういう人だったんだ)と、頭の中で思い返していた。
「外で待ってろ」表情を全く動かさない黄門様の渋い声。
「でも…」と言い掛けたパンチを、黄門様が黙って見詰める。
(怖っ。じいさんのくせにすげぇ怖っ)もう一回言うけど、本当に人間か?四分六で違う気がしてきたわ。「はい」と一礼して、パンチとスキンヘッドが診療所の外に出ていった。
(あたしは別に立ったままで大丈夫ですけど)ってアピ―ルの心算《つもり》でとぼけた顔して近くの壁に寄り掛かる。ここは序でに《ついでに》口笛でも吹いといた方がいいのかしら…。
「何してんのよ」
「は?」
「『は』じゃないでしょ。何してんのって。せっかく空けてくれたんだから座んなさいよ」
「あ―」
「『あ―』でもないでしょ、ほら」
「どうも…」
これ以上座り辛いソファ―、今まで生きてきた中でちょっと思い出せそうも無いわ~。黄門様の隣、座ろうとすると拒絶反応からか、躰中の関節がギ、ギと厭な音を立てた。そんなあたしを見て気が済んだのか、受付の中に戻っていく律ちゃん。あたしは…と言うと、横に鎮座した黄門様から発せられる威圧感という名のオ―ラに耐え切れず、秒でスマホの世界へと逃げ込んだ。
そこからは、針の蓆《むしろ》に座り躰を動かす事も無く、声は勿論発する事無く、呼吸の数も最低限に抑えるという、修行というよりは苦行と呼ぶ方がしっくりする悪夢のような時間が始まったのだった。
永遠とも思える長いゝ四十分が過ぎた頃、
「…カラキさん。カラキセイジュウロウさん。三番にお入り下さい」
アナウンスに続いて、隣で立ち上がる気配が在った。下を向いてスマホに角度を固定しているあたしの目線の先を、黄門様のスリッパがゆっくりと横切って行く。(セイジュウロウって…)、唯《ただ》只管《ひたすら》に溜まっていた迷惑メ―ルを削除していた手を止めて、深い、深~い安堵の溜め息を吐く《つく》。こんだけ緊張しながらスマホを弄った《いじった》のも、人生で初めての経験だった。あたしがもし修行僧だったら、この四十分で一段か二段ステ―ジ上がったと思うわ。
「…キムラさん。キムラハナミさん。二番にお入り下さい」
どうやら、あたしが受付をしたのは、セイジュウロウの次だったみたいだ。今度来る時は、この時間帯だけは何が何でも避けようと、固く心に誓う。
壁伝いにケンケンしながら入って行った診察室、待っていたのは院長先生の息子さんだった。──「ゲフッ」…なんてこった。一難去って又一難。お年寄りや看護師さん達から"若先生"と呼ばれている、熊みたいに大きな躰のその先生は、あたしを見ると、顔の半分を占める髭に囲まれた大きな口を開けて、豪快に笑った。
「ハッハッハッ。はなみちゃんかあ、大きくなったねえ。どうぞ」
「お久し振りです」
勧められた椅子に腰を下ろす。前に来たのは、小学校四年生の時。フォ―クダンスでペアを組んだ男の子とあたし、二人共がダンス中、一緒に腕を折るという、神憑り《かみがかり》な怪我をした時以来だった。
「今日はどうしたの?」
「昨日の夜転んだ時に、左足をちょっと捻っちゃったみたいで…」
「またフォ―クダンス?」
んな訳ね―だろ。
「…いえ、ぼ―っとしてたら人と打つかっちゃって」
「ちょっとこの台の上に足載せてみようか。台壊さないように、ゆっくりでいいからね」
空いてる方の足で、減らず口を叩くその顎に蹴りを入れてやった。──嘘。願望。
──診察の後に撮って貰ったレントゲンの結果、骨には異常なし。「低周波でマッサ―ジ治療してから、軽く固定しよう」という若先生の見立てで、貸して貰った松葉杖を手に、治療室に向かい廊下を進んで行く。成る程、バリアフリ―って、確かにこういう時有難い。普段、気にも留めず見過ごしている、たった数ミリの心遣いに助けられ、自然と目線が下がる。治療室に続く最後の角を曲がると、先を歩く男の後ろ姿が目に入った。残念ながら、まさかのセイジュウロウ二度《ふたたび》である。(まだ居たのかよ…)間の悪さを呪って舌打ち。ならば、少しでも距離を置かねばと、立ち止まって、暫し《しばし》壁に躰を預ける。そのままセイジュウロウの背中が離れて行くのを待っていたら、小さな男の子が二人、治療室から勢いよく飛び出して来るのが見えた。先頭の一人が、勢いそのままセイジュウロウに打つかって転ぶ。尻餅をついた男の子が、出会い頭に自分の身に起こった事態を飲み込めず立ち上がれないでいると、セイジュウロウがその躰を掴み上げた。…ううっ、窓から放り投げるのか?それとも頭から喰っちゃうのか!?息を呑むあたし。ところが…、意外にもセイジュウロウは男の子をすんなり廊下に立たせると、人の言葉で「大丈夫か」と声を掛けたのだった。「殺すぞ」の聞き間違いでは無い。声を掛けられた男の子は黙ったまま小さく頷くと、もう一人の男の子と一緒に駆け出して行った。きっと急いで帰って、診療所に鬼が出たってお母さんに話す心算《つもり》なんだろう。怖かったよね。気を付けて帰るんだよ。セイジュウロウの背中が治療室に消えて行くのを待って、更にその後10数えてから後ろに続く。入口に用意されたホワイトボ―ド、五番の場所にあたしの名前を見付けた。セイジュウロウは三番。三番"唐木征十郎"《からきせいじゅうろう》。(良かった~隣じゃない)ほっと一つ息を吐いて《ついて》、五番の低周波治療器の前に座る。小学校で骨折した時にも散々お世話になった機械だから、使い方はまだ覚えてる、……筈。
…え―と、コ―ドの先に丸いオセロ位のシ―トが付いてて……って、──無い。あれっ?…と思ったら、治療器のフックに架けてある筈のコ―ドとシ―トは、テ―ブルの下に落ちたままでほったらかしにされていた。多分さっきの男の子達のどっちかだろう。ったく、ちゃんと片付けて行けよな、ブツブツブツ…。機械の配線が何本も絡み合ったカ―ペットの上からコ―ドを拾い上げる。その拍子にあたしと征十郎の間に座っているお婆ちゃんと目が合って、何方《どちら》からともなく挨拶した。「大変ねぇ」、「いえいえ」なんて、そんな感じ。
シ―トを足に貼り付けてバンドで固定。我ながら慣れたもんだ。スイッチを入れてと…。只今目盛りは"2"の位置。目盛りは最大"7"迄あるんだけど、一度"4"にした時、想定外のパワ―にビビらされた事を覚えていて、目盛りは動かさずそのままにした。あたしにも、一応付いていました学習機能。
それでは改めまして、スイッチオン。渡されたカ―ドに書いてある治療時間は二十分。その時間で酒屋の注文を済ませちゃおうと企んで《たくらんで》スマホを開く。
ん?──あれっ?おかしい。電気が弱い。久しぶりだけど、こんなもんだったかなぁ。腑に落ちない気持ちを抱えながら、更にツマミを回す。"3"‥‥う~ん、まだ…弱い。つ―か、変わってないし。歳を重ねた事に依って、面《つら》の皮だけじゃなく、足の皮も厚くなるのだろうか。ちょっとビクつきながらの"4"。──変化無し。……"5"、これでも全然。え―壊れてんのかなあ。一応"6"、からの…"7"、いやゝそんでも全く。全然変わらない。電気は来てるけど、これっぽっちも強くなんない。あたしが左足だけ電気に鈍感なんて特異体質でもない限り、壊れてるとしか思えない。律ちゃんに言ってやろうと諦めたその時、左隣に座ってるお婆ちゃんの顔が尋常じゃない事に気付かされた。真っ昼間から幽霊でも見ちまったみたいな、言葉にするとそんな感じ。ビックリし過ぎたのか、せりだした目ん玉押して戻してやろうかと思った位。兎にも角にも、はちゃめちゃに驚いた顔を左に向けている。あたしも当然その視線を追った。その先には──
(あう…あう、あぅぁああ…)
其処には…肘にシ―トを貼り付けた右腕を、まるで別の生き物の様にのたうち廻らせて尚《なお》、真顔の征十郎が座っていた。
ビタンッビタンッビタンッ──
治療器の本体とテ―ブルの間で、行ったり来たり何度も打ち付けられる征十郎の右腕。
ビタンッビタンッビタンッ──
それでも顔色一つ変えない征十郎が余程恐ろしいのだろう、婆さんは今にも口から泡でも吹き出しそうだ。こりゃあ、三途の川に膝、いや腰まで浸かってるかも知れない。
ビタンッビタンッビタンッ──
三回に一回は跳ね返った自分の右腕が自分の顔面を殴り付ける征十郎。それでも表情を変えない征十郎。何だ。何者なんだ征十郎。
「あっ!」閃いた《ひらめいた》!あたしは音速を超える素早さで、目の前にある自分の治療器のスイッチを切る。
──ビタン。
征十郎の右腕が、物の怪《もののけ》じみたその動きを止めた。婆さんは止まったまま。心臓まで止まってないだろうなと心配して、AEDを探し始めたとこで、婆さん瞬き開始。戻られました。
──あのガキ共……やりやがったな。今さら考えを巡らせてみても、時は遅きに過ぎた。コ―ドの先を目で辿ると案の定、あたしの左足に付けられたシートの先は征十郎の三番に、征十郎の腕から伸びるコ―ドの先は目の前の五番に繋がっていた。あたしは無言で足に付けたシ―トを外すと、律ちゃんに挨拶もしないで診療所を飛び出した。な、なんなんだ、この先の大凶何ヵ月分かを纏めて《まとめて》先取りしたこの感じ。「祓え給い《はらえたまい》浄め給え《きよめたまえ》、祓え給い浄め給え…」口ずさみながら、あたしは一心不乱に自転車を漕いだのだった。
結局、というか当然、その後支払いと薬を貰う為にもう一度診療所に行くことになって、律ちゃんの小言を、足を固定して貰いながら聞く事になったあたし。頭を下げて家に戻ったらもう四時半。帰り際に持って行くように言われた松葉杖は、なんだか恥ずかしくて断る事にした。靴は履けないけど、サンダルならいけるし、固定して貰ったから、体重掛けなきゃ足も着けるしね。なんだかあ―ゆうのって、怪我が長引くような気がしてさ。そう言えばパパも病気から帰ってくると、自分でギプスとか外してたっけ。
まあそうは言っても素早い動きが出来る訳じゃないし、あんまり混まなきゃいいなあなんて、商売人失格のモチベ―ションで冷蔵庫を開ける。あれっ…いっけね、玉子が無い。昨日は双葉の誕生日で貸し切りだったから、途中で注文が入る事も無かったし、加えて、今日は月曜日だから大丈夫でしょ。なんて考えで勝手に弛れて《だれて》たけど玉子が無いって…あ、何てこった、よく見りゃキャベツも無い。しくじった。こんな事なら診療所の帰りにス―パ―寄ってきちゃえば良かったなぁ。しゃ―ない、片足自転車でもうひとっ走り行ってきますか。今ならきむ爺が来るまでには戻ってこられるでしょ。財布を手に取って、電灯のスイッチに指を掛ける。
カラ・コロ・カラン──
振り返ると、引き戸開けて立つ買い物袋を提げたきむ爺と目が合った。
「あれっ。きむ爺早いね」
「長屋の婆さんがお客さん連れて来るだなんて言いやがるから、ちょいとス―パ―寄ったら鰤《ぶり》が安く出てたもんだからねえ」
「お刺身?」
「ちょっと刺し身じゃなあ…。煮るか焼くかすりゃあ、そこゝ喰えるようにはなるだろうけどねえ。七時位には来るような事言ってやがったから、支度の手間考えて早めに来てみたって訳よ」
「あ―そうだったんだ」
真魚板《まないた》の横に置かれたス―パ―の袋からは、中に入っている玉子とキャベツが透けて見えていた。
「あ…そうだったんだ」
自分でも何故だか分からないけど、もう一度同じ言葉を口にする。それから胸の中で"ありがと"って。束の間、心地良い言葉の要らない一時。
外階段を降りて来る双葉の足音が聴こえてきた。
「いっ…」
昨日の夜倒れた時に捻った《ひねった》左足は、朝になって洗濯物を片付ける頃になると、靴下の上からでも腫れてきているのが判る程に悪化していた。あの後、家に戻って来る迄はまだなんとか歩けたのに、今では床につけてちょっと力を入れただけで動きが止まる。昨晩《ゆうべ》騒ぎを聞きつけ直ぐ様《すぐさま》火事場に馳せ参じたという一樹は、あまり寝られなかったのか、今朝は朝ご飯も食べずにとび出して行った。優か瑠花の家にでも泊まったのか、珍しく双葉も帰ってこないし、こうなりゃ自力で何とかするしかないみたいだ。片足で乗れるのか心配だった自転車も、やってみると案外問題無い感じ。大丈夫、いける。「よっしゃ!かかってこい!」気合いを入れて、凜のお母さんが勤める診療所に向け、あたしは右足一本でペダルを踏み込んだのだった。パ―カ―の上にユニクロのウルトラライトダウン。十二月にしては薄着の筈なのに、二・三分走っただけで、おでこにうっすら汗が滲んで来た。凜のお母さん=《イコ―ル》律っちゃんが勤めている診療所は、内科と整形外科が一緒になっていて、年はきむ爺よりも上らしいけど腕がいいと評判の院長のお陰なのか、待合室は何時《いつ》来てもギュウ混みの満員御礼状態。まあ二階建ての建物自体もそれ程大きくはないんだけど、それでも三・四十人は入るだろうか。毎度ここに来る度、変わらぬ患者の多さに自分が健康である事の有り難み《ありがたみ》を再認識させられる貴重な場所でもある。やっとの事で診療所に着くと、駐車場に入りきらなかったのか、一台の車が駐輪場の前まではみ出して停めてあって、自転車を停めるのに苦労させられた。PUMAのマ―クのあの猫みたいなやつがボンネットに付いたその車に舌打ちしたあたしは、取り敢えずドアが凹む位の蹴りを入れる事にした。──嘘。
診療所の中は椅子に座り切れず通路に立っている人が何人も居て、相も《あいも》変わらぬ盛況ぶり。ケンケンで診察券を出しに行くあたしの為に、受付の前に出来た数人の人垣が勝手に割れてくれた。その様子に、優越感にも似たくすぐったい気持ちを感じてしまい恥ずかしくなったあたしは、顔を伏せたままその間を進む。
「あれっ、はなみじゃない。どうしたの?」
早速、受付の中から目敏い《めざとい》律ちゃんが声を掛けてくる。
「うん。ちょっと捻っちゃったみたい」
「…そう。今からだとちょっと待つかなぁ。…大丈夫?痛む?」
「あ、大丈夫、大丈夫」
受付から出て来てくれた律ちゃんの視線が、足を看て《みて》からあたしの後ろへと動いて止まる。釣られて振り返ると、軽く五人か六人は座れそうな受付前の大きなソファ―に、男が三人、間隔を空けてゆったりと腰掛けている様子が見て取れた。三人組の真ん中は結構なじいさんで、左右には律ちゃんと歳がそう変わらない位に見えるおじさんが二人。並びだけで言うと、水戸黄門的なあの感じ。じいさんの横に助さんと格さんみたいな、あれね。あ―水戸黄門が分かんないって人は、ちょっとググって見て。でも言っとくけど、似てるのは飽く迄《あくまで》並び順だけで、目の前の三人組はどんだけ贔屓目《ひいきめ》に見た処で、正義の味方黄門様御一行とは言い難い面々。だって、パンチパ―マとスキンヘッドの助さんと格さんに、そもそも人間なのか?と疑う様な仁王様を更に人相悪くしたような黄門様だったから。もしこの人達が一般人であるなら、あたしは一般という言葉の意味について、もう一度考え直さなければならない位。
「すいません。患者さんも増えてきたんで、悪いんですけど付き添いの方は立って待っていて貰えませんか?」
その三人に向けた律ちゃんの、笑顔ではあるけどはっきりしっかりした口調。未だ《いまだ》三人の方を振り返ったままだったあたしは、固まってる顔を無理矢理笑顔に変えながら、(そうだ。この人はこういう人だったんだ)と、頭の中で思い返していた。
「外で待ってろ」表情を全く動かさない黄門様の渋い声。
「でも…」と言い掛けたパンチを、黄門様が黙って見詰める。
(怖っ。じいさんのくせにすげぇ怖っ)もう一回言うけど、本当に人間か?四分六で違う気がしてきたわ。「はい」と一礼して、パンチとスキンヘッドが診療所の外に出ていった。
(あたしは別に立ったままで大丈夫ですけど)ってアピ―ルの心算《つもり》でとぼけた顔して近くの壁に寄り掛かる。ここは序でに《ついでに》口笛でも吹いといた方がいいのかしら…。
「何してんのよ」
「は?」
「『は』じゃないでしょ。何してんのって。せっかく空けてくれたんだから座んなさいよ」
「あ―」
「『あ―』でもないでしょ、ほら」
「どうも…」
これ以上座り辛いソファ―、今まで生きてきた中でちょっと思い出せそうも無いわ~。黄門様の隣、座ろうとすると拒絶反応からか、躰中の関節がギ、ギと厭な音を立てた。そんなあたしを見て気が済んだのか、受付の中に戻っていく律ちゃん。あたしは…と言うと、横に鎮座した黄門様から発せられる威圧感という名のオ―ラに耐え切れず、秒でスマホの世界へと逃げ込んだ。
そこからは、針の蓆《むしろ》に座り躰を動かす事も無く、声は勿論発する事無く、呼吸の数も最低限に抑えるという、修行というよりは苦行と呼ぶ方がしっくりする悪夢のような時間が始まったのだった。
永遠とも思える長いゝ四十分が過ぎた頃、
「…カラキさん。カラキセイジュウロウさん。三番にお入り下さい」
アナウンスに続いて、隣で立ち上がる気配が在った。下を向いてスマホに角度を固定しているあたしの目線の先を、黄門様のスリッパがゆっくりと横切って行く。(セイジュウロウって…)、唯《ただ》只管《ひたすら》に溜まっていた迷惑メ―ルを削除していた手を止めて、深い、深~い安堵の溜め息を吐く《つく》。こんだけ緊張しながらスマホを弄った《いじった》のも、人生で初めての経験だった。あたしがもし修行僧だったら、この四十分で一段か二段ステ―ジ上がったと思うわ。
「…キムラさん。キムラハナミさん。二番にお入り下さい」
どうやら、あたしが受付をしたのは、セイジュウロウの次だったみたいだ。今度来る時は、この時間帯だけは何が何でも避けようと、固く心に誓う。
壁伝いにケンケンしながら入って行った診察室、待っていたのは院長先生の息子さんだった。──「ゲフッ」…なんてこった。一難去って又一難。お年寄りや看護師さん達から"若先生"と呼ばれている、熊みたいに大きな躰のその先生は、あたしを見ると、顔の半分を占める髭に囲まれた大きな口を開けて、豪快に笑った。
「ハッハッハッ。はなみちゃんかあ、大きくなったねえ。どうぞ」
「お久し振りです」
勧められた椅子に腰を下ろす。前に来たのは、小学校四年生の時。フォ―クダンスでペアを組んだ男の子とあたし、二人共がダンス中、一緒に腕を折るという、神憑り《かみがかり》な怪我をした時以来だった。
「今日はどうしたの?」
「昨日の夜転んだ時に、左足をちょっと捻っちゃったみたいで…」
「またフォ―クダンス?」
んな訳ね―だろ。
「…いえ、ぼ―っとしてたら人と打つかっちゃって」
「ちょっとこの台の上に足載せてみようか。台壊さないように、ゆっくりでいいからね」
空いてる方の足で、減らず口を叩くその顎に蹴りを入れてやった。──嘘。願望。
──診察の後に撮って貰ったレントゲンの結果、骨には異常なし。「低周波でマッサ―ジ治療してから、軽く固定しよう」という若先生の見立てで、貸して貰った松葉杖を手に、治療室に向かい廊下を進んで行く。成る程、バリアフリ―って、確かにこういう時有難い。普段、気にも留めず見過ごしている、たった数ミリの心遣いに助けられ、自然と目線が下がる。治療室に続く最後の角を曲がると、先を歩く男の後ろ姿が目に入った。残念ながら、まさかのセイジュウロウ二度《ふたたび》である。(まだ居たのかよ…)間の悪さを呪って舌打ち。ならば、少しでも距離を置かねばと、立ち止まって、暫し《しばし》壁に躰を預ける。そのままセイジュウロウの背中が離れて行くのを待っていたら、小さな男の子が二人、治療室から勢いよく飛び出して来るのが見えた。先頭の一人が、勢いそのままセイジュウロウに打つかって転ぶ。尻餅をついた男の子が、出会い頭に自分の身に起こった事態を飲み込めず立ち上がれないでいると、セイジュウロウがその躰を掴み上げた。…ううっ、窓から放り投げるのか?それとも頭から喰っちゃうのか!?息を呑むあたし。ところが…、意外にもセイジュウロウは男の子をすんなり廊下に立たせると、人の言葉で「大丈夫か」と声を掛けたのだった。「殺すぞ」の聞き間違いでは無い。声を掛けられた男の子は黙ったまま小さく頷くと、もう一人の男の子と一緒に駆け出して行った。きっと急いで帰って、診療所に鬼が出たってお母さんに話す心算《つもり》なんだろう。怖かったよね。気を付けて帰るんだよ。セイジュウロウの背中が治療室に消えて行くのを待って、更にその後10数えてから後ろに続く。入口に用意されたホワイトボ―ド、五番の場所にあたしの名前を見付けた。セイジュウロウは三番。三番"唐木征十郎"《からきせいじゅうろう》。(良かった~隣じゃない)ほっと一つ息を吐いて《ついて》、五番の低周波治療器の前に座る。小学校で骨折した時にも散々お世話になった機械だから、使い方はまだ覚えてる、……筈。
…え―と、コ―ドの先に丸いオセロ位のシ―トが付いてて……って、──無い。あれっ?…と思ったら、治療器のフックに架けてある筈のコ―ドとシ―トは、テ―ブルの下に落ちたままでほったらかしにされていた。多分さっきの男の子達のどっちかだろう。ったく、ちゃんと片付けて行けよな、ブツブツブツ…。機械の配線が何本も絡み合ったカ―ペットの上からコ―ドを拾い上げる。その拍子にあたしと征十郎の間に座っているお婆ちゃんと目が合って、何方《どちら》からともなく挨拶した。「大変ねぇ」、「いえいえ」なんて、そんな感じ。
シ―トを足に貼り付けてバンドで固定。我ながら慣れたもんだ。スイッチを入れてと…。只今目盛りは"2"の位置。目盛りは最大"7"迄あるんだけど、一度"4"にした時、想定外のパワ―にビビらされた事を覚えていて、目盛りは動かさずそのままにした。あたしにも、一応付いていました学習機能。
それでは改めまして、スイッチオン。渡されたカ―ドに書いてある治療時間は二十分。その時間で酒屋の注文を済ませちゃおうと企んで《たくらんで》スマホを開く。
ん?──あれっ?おかしい。電気が弱い。久しぶりだけど、こんなもんだったかなぁ。腑に落ちない気持ちを抱えながら、更にツマミを回す。"3"‥‥う~ん、まだ…弱い。つ―か、変わってないし。歳を重ねた事に依って、面《つら》の皮だけじゃなく、足の皮も厚くなるのだろうか。ちょっとビクつきながらの"4"。──変化無し。……"5"、これでも全然。え―壊れてんのかなあ。一応"6"、からの…"7"、いやゝそんでも全く。全然変わらない。電気は来てるけど、これっぽっちも強くなんない。あたしが左足だけ電気に鈍感なんて特異体質でもない限り、壊れてるとしか思えない。律ちゃんに言ってやろうと諦めたその時、左隣に座ってるお婆ちゃんの顔が尋常じゃない事に気付かされた。真っ昼間から幽霊でも見ちまったみたいな、言葉にするとそんな感じ。ビックリし過ぎたのか、せりだした目ん玉押して戻してやろうかと思った位。兎にも角にも、はちゃめちゃに驚いた顔を左に向けている。あたしも当然その視線を追った。その先には──
(あう…あう、あぅぁああ…)
其処には…肘にシ―トを貼り付けた右腕を、まるで別の生き物の様にのたうち廻らせて尚《なお》、真顔の征十郎が座っていた。
ビタンッビタンッビタンッ──
治療器の本体とテ―ブルの間で、行ったり来たり何度も打ち付けられる征十郎の右腕。
ビタンッビタンッビタンッ──
それでも顔色一つ変えない征十郎が余程恐ろしいのだろう、婆さんは今にも口から泡でも吹き出しそうだ。こりゃあ、三途の川に膝、いや腰まで浸かってるかも知れない。
ビタンッビタンッビタンッ──
三回に一回は跳ね返った自分の右腕が自分の顔面を殴り付ける征十郎。それでも表情を変えない征十郎。何だ。何者なんだ征十郎。
「あっ!」閃いた《ひらめいた》!あたしは音速を超える素早さで、目の前にある自分の治療器のスイッチを切る。
──ビタン。
征十郎の右腕が、物の怪《もののけ》じみたその動きを止めた。婆さんは止まったまま。心臓まで止まってないだろうなと心配して、AEDを探し始めたとこで、婆さん瞬き開始。戻られました。
──あのガキ共……やりやがったな。今さら考えを巡らせてみても、時は遅きに過ぎた。コ―ドの先を目で辿ると案の定、あたしの左足に付けられたシートの先は征十郎の三番に、征十郎の腕から伸びるコ―ドの先は目の前の五番に繋がっていた。あたしは無言で足に付けたシ―トを外すと、律ちゃんに挨拶もしないで診療所を飛び出した。な、なんなんだ、この先の大凶何ヵ月分かを纏めて《まとめて》先取りしたこの感じ。「祓え給い《はらえたまい》浄め給え《きよめたまえ》、祓え給い浄め給え…」口ずさみながら、あたしは一心不乱に自転車を漕いだのだった。
結局、というか当然、その後支払いと薬を貰う為にもう一度診療所に行くことになって、律ちゃんの小言を、足を固定して貰いながら聞く事になったあたし。頭を下げて家に戻ったらもう四時半。帰り際に持って行くように言われた松葉杖は、なんだか恥ずかしくて断る事にした。靴は履けないけど、サンダルならいけるし、固定して貰ったから、体重掛けなきゃ足も着けるしね。なんだかあ―ゆうのって、怪我が長引くような気がしてさ。そう言えばパパも病気から帰ってくると、自分でギプスとか外してたっけ。
まあそうは言っても素早い動きが出来る訳じゃないし、あんまり混まなきゃいいなあなんて、商売人失格のモチベ―ションで冷蔵庫を開ける。あれっ…いっけね、玉子が無い。昨日は双葉の誕生日で貸し切りだったから、途中で注文が入る事も無かったし、加えて、今日は月曜日だから大丈夫でしょ。なんて考えで勝手に弛れて《だれて》たけど玉子が無いって…あ、何てこった、よく見りゃキャベツも無い。しくじった。こんな事なら診療所の帰りにス―パ―寄ってきちゃえば良かったなぁ。しゃ―ない、片足自転車でもうひとっ走り行ってきますか。今ならきむ爺が来るまでには戻ってこられるでしょ。財布を手に取って、電灯のスイッチに指を掛ける。
カラ・コロ・カラン──
振り返ると、引き戸開けて立つ買い物袋を提げたきむ爺と目が合った。
「あれっ。きむ爺早いね」
「長屋の婆さんがお客さん連れて来るだなんて言いやがるから、ちょいとス―パ―寄ったら鰤《ぶり》が安く出てたもんだからねえ」
「お刺身?」
「ちょっと刺し身じゃなあ…。煮るか焼くかすりゃあ、そこゝ喰えるようにはなるだろうけどねえ。七時位には来るような事言ってやがったから、支度の手間考えて早めに来てみたって訳よ」
「あ―そうだったんだ」
真魚板《まないた》の横に置かれたス―パ―の袋からは、中に入っている玉子とキャベツが透けて見えていた。
「あ…そうだったんだ」
自分でも何故だか分からないけど、もう一度同じ言葉を口にする。それから胸の中で"ありがと"って。束の間、心地良い言葉の要らない一時。
外階段を降りて来る双葉の足音が聴こえてきた。