約束
4
昼の食堂。
すぐ後ろに胡桃がいる事を感じていたが、祐一は「普通に」していた。
胡桃は1人。
祐一は今度出かける噂の後輩と一緒にいた。
おかしなことではない。
部署が同じ人と昼ごはんを食堂で食べているだけだし、後輩から何か告白めいた事も言われていない。
「金曜日にー」
と女は大きめの声で話す。わざとらしい。周囲に聞こえるように、話す。
「約束ですもんねー」
『約束』
祐一はしないはずなのに。
後輩の言葉は胡桃に聞こえているんだろうか。
一方的に話しかける目の前の赤い唇に目を置きながら、後ろの胡桃のことしか全く考えていなかった。
その時、
「胡桃ちゃん」
と胡桃の隣の空いている席に男が座った。
男は少しかがんで、覗き込むように胡桃を見て、その馴れ馴れしく軽い態度がゾッとした。
思わず手を血が出るほど握りしめていた。
立ち上がって突き飛ばしてしまいそうだった。
「はい、わかりました」
胡桃の明瞭な声。
いつもきちんと、はっきり話す彼女。
嘘やかけ引きなんてない言葉。
彼女が、男からの誘いを受けている。
「じゃあ、明日金曜日にね」
しかも営業で有名なチャラ男の⋯⋯ 。
チャラ男が上機嫌で出て行き、胡桃も食事を終えて静かにすっと食堂から出て行く。
自分はまだ座っていた。
先にこの女と出かける『約束』と同じ金曜日。
先に胡桃を避けて、先に他の女と約束したのは祐一の方だ。
なのにイライラして、気になって、居ても立っても居られない気分だ。
吐きそうだと思った。
なぜ、
なぜ自分は止めないのか。
あんな目の前で、カノジョが誘われて、男と2人で出かけるのを知っていながら?
どうでもいい女と出かけたくもないのに、なぜ止めずに流される?
金曜日にレストランですぐに座ってられなくなった。
最初から、こんなところに座ってる場合なんかじゃなかったんだと、やっと分かった。
後輩がなんかうるさかったが、携帯を出して胡桃に電話した。
出ない。
もう一度、もう一度、と焦って電話している。
すぐ胡桃のところに行くしかない。
それしか、いま出来ることがない。
そうでなければ、もう心が止まるんだと感じるぐらいだった。
いきなり立ち上がって、帰りはじめる。
後輩がなんか言ってるが、興味もなかった。
「だから、オレはカノジョがいるんだよ! 」
と大声で怒鳴った。
なぜ行かせたのか。
「相手にして欲しくないことはしない」
と頭の中で声がする。
胡桃の電話の電源が切れている。
何かあったのかもしれない。
あってほしくないことが。
耐えられない。
なぜ、後ろで誘われてる時に、言わなかったのか、
なぜ止めなかったのか。
そして、そもそもなぜ他の女と興味もないのに出かける事になっていたのか。
彼女が他の男と話すだけでも嫌なのに、まさか出かけるなんて、しかも連絡がつかないなんて。
あー、
これが自分のしてきたことなのか⋯⋯ 。
と目の前が真っ暗になった。
一縷の望みをかけて、
彼女がそんなことはしないだろうと。
一晩中、チャラ男の行きそうな店をまわって、胡桃に電話し続けた。
翌朝、胡桃のデスクに行ったら、休みだった。
何かあったんだと思った。
一晩中もし彼女がと思って探し続けていたら、もしかして、意思に反して何かされたとしたら、という心配にかわった。
また電話をしても、やはり電源がきれてる。
胡桃の同僚に住所を聞いた。
カレシだから、と、心配だから見舞いに行くと、じゃぁ、なぜ住所を知らないんだと言わんばかりの視線に、たぶん祐一の必死な顔と、いくらか事情を知っているんだろう、渋々教えてもらった。
午前中の仕事を終え、会社を飛び出した。
タクシーをひろい、駆けつけた。
彼女の家に。
インターホンを鳴らすだけでは、我慢できずに、扉を叩いた。
部屋の中で気配がする。
鍵がカチャッと音を立てて、扉が開いた。
泣き腫らした目。
祐一を見た瞬間、さらに胡桃の目からポロポロと涙が落ちた。
体中の血が凍るような、心に刃物を突き立てられたような気がした。
なぜ2人で食事なんてのこのこ行ったんだと叫び出しそうな苛立ちと、泣いてる彼女を何とかオレが慰めてやりたい気持ちと、心配と、猜疑心と、オレのものだという独占欲と、なんだか全部が混じって、
「なんで⋯⋯ 」
と絞るように言った。
変な声だった。
胡桃は、
「遠野さんがあの人と約束して⋯⋯ 」
と言って、言葉が出なくなり、泣き出した。
その言葉を目の前に突きつけられたように感じた。
『自分が嫌だと思う事をしない』
それだけだったのに。
単純に。
「じゃ、なんでお前出かけた? 」
と言った。
彼女が、ボロボロ泣いて、
「行くわけない!」
ときつく言った。
初めて聞いた怒り。
初めて知った、彼女の中の熱い炎のような気持ち。
ドロドロの嫉妬。
「遠野さんに行って欲しくない、他の子となんて、出かけて欲しくない!
そんな私が、行くわけない! 」
その時の自分の気持ち。
胡桃は昨夜、いや最近ずっと、祐一が昨晩感じていた気持ちを味わっていたんだと知った。
そして彼女自身は、だからこそそんなことはしなかった。
こんなにホッとしたことあったかと思った。
逆に自分のやった事を嫌と言うほど思い知った。
彼女の言葉は信じれた。
彼女のあつさを感じで、ゾクゾクした。
彼女に何の曇りもなくて、ただ愛しかった。
ボロボロの泣き顔も。
こんな状態で、嘘のかけらも見あたるわけがない。
思った通りの人だと、100%信じられる気がした。
そんな簡単な事だったんだ。
相手の嫌がる事をしない、
胡桃が愛しいから。
そうしたら。自然に、ただ普通に、単純に、浮気なんて起こるはずがなかった。
こんなにも、簡単なことだったんだ、馬鹿みたいに。
「もう行かない」
と祐一は胡桃に言った。
「もう2度と他の女と行かない」
それから彼女の顔を見て、
「約束だ」
とはっきり言った。
いくらでも約束したいと思った。
どんな風にでも束縛して、束縛されたいんだと知った。
昼の食堂。
すぐ後ろに胡桃がいる事を感じていたが、祐一は「普通に」していた。
胡桃は1人。
祐一は今度出かける噂の後輩と一緒にいた。
おかしなことではない。
部署が同じ人と昼ごはんを食堂で食べているだけだし、後輩から何か告白めいた事も言われていない。
「金曜日にー」
と女は大きめの声で話す。わざとらしい。周囲に聞こえるように、話す。
「約束ですもんねー」
『約束』
祐一はしないはずなのに。
後輩の言葉は胡桃に聞こえているんだろうか。
一方的に話しかける目の前の赤い唇に目を置きながら、後ろの胡桃のことしか全く考えていなかった。
その時、
「胡桃ちゃん」
と胡桃の隣の空いている席に男が座った。
男は少しかがんで、覗き込むように胡桃を見て、その馴れ馴れしく軽い態度がゾッとした。
思わず手を血が出るほど握りしめていた。
立ち上がって突き飛ばしてしまいそうだった。
「はい、わかりました」
胡桃の明瞭な声。
いつもきちんと、はっきり話す彼女。
嘘やかけ引きなんてない言葉。
彼女が、男からの誘いを受けている。
「じゃあ、明日金曜日にね」
しかも営業で有名なチャラ男の⋯⋯ 。
チャラ男が上機嫌で出て行き、胡桃も食事を終えて静かにすっと食堂から出て行く。
自分はまだ座っていた。
先にこの女と出かける『約束』と同じ金曜日。
先に胡桃を避けて、先に他の女と約束したのは祐一の方だ。
なのにイライラして、気になって、居ても立っても居られない気分だ。
吐きそうだと思った。
なぜ、
なぜ自分は止めないのか。
あんな目の前で、カノジョが誘われて、男と2人で出かけるのを知っていながら?
どうでもいい女と出かけたくもないのに、なぜ止めずに流される?
金曜日にレストランですぐに座ってられなくなった。
最初から、こんなところに座ってる場合なんかじゃなかったんだと、やっと分かった。
後輩がなんかうるさかったが、携帯を出して胡桃に電話した。
出ない。
もう一度、もう一度、と焦って電話している。
すぐ胡桃のところに行くしかない。
それしか、いま出来ることがない。
そうでなければ、もう心が止まるんだと感じるぐらいだった。
いきなり立ち上がって、帰りはじめる。
後輩がなんか言ってるが、興味もなかった。
「だから、オレはカノジョがいるんだよ! 」
と大声で怒鳴った。
なぜ行かせたのか。
「相手にして欲しくないことはしない」
と頭の中で声がする。
胡桃の電話の電源が切れている。
何かあったのかもしれない。
あってほしくないことが。
耐えられない。
なぜ、後ろで誘われてる時に、言わなかったのか、
なぜ止めなかったのか。
そして、そもそもなぜ他の女と興味もないのに出かける事になっていたのか。
彼女が他の男と話すだけでも嫌なのに、まさか出かけるなんて、しかも連絡がつかないなんて。
あー、
これが自分のしてきたことなのか⋯⋯ 。
と目の前が真っ暗になった。
一縷の望みをかけて、
彼女がそんなことはしないだろうと。
一晩中、チャラ男の行きそうな店をまわって、胡桃に電話し続けた。
翌朝、胡桃のデスクに行ったら、休みだった。
何かあったんだと思った。
一晩中もし彼女がと思って探し続けていたら、もしかして、意思に反して何かされたとしたら、という心配にかわった。
また電話をしても、やはり電源がきれてる。
胡桃の同僚に住所を聞いた。
カレシだから、と、心配だから見舞いに行くと、じゃぁ、なぜ住所を知らないんだと言わんばかりの視線に、たぶん祐一の必死な顔と、いくらか事情を知っているんだろう、渋々教えてもらった。
午前中の仕事を終え、会社を飛び出した。
タクシーをひろい、駆けつけた。
彼女の家に。
インターホンを鳴らすだけでは、我慢できずに、扉を叩いた。
部屋の中で気配がする。
鍵がカチャッと音を立てて、扉が開いた。
泣き腫らした目。
祐一を見た瞬間、さらに胡桃の目からポロポロと涙が落ちた。
体中の血が凍るような、心に刃物を突き立てられたような気がした。
なぜ2人で食事なんてのこのこ行ったんだと叫び出しそうな苛立ちと、泣いてる彼女を何とかオレが慰めてやりたい気持ちと、心配と、猜疑心と、オレのものだという独占欲と、なんだか全部が混じって、
「なんで⋯⋯ 」
と絞るように言った。
変な声だった。
胡桃は、
「遠野さんがあの人と約束して⋯⋯ 」
と言って、言葉が出なくなり、泣き出した。
その言葉を目の前に突きつけられたように感じた。
『自分が嫌だと思う事をしない』
それだけだったのに。
単純に。
「じゃ、なんでお前出かけた? 」
と言った。
彼女が、ボロボロ泣いて、
「行くわけない!」
ときつく言った。
初めて聞いた怒り。
初めて知った、彼女の中の熱い炎のような気持ち。
ドロドロの嫉妬。
「遠野さんに行って欲しくない、他の子となんて、出かけて欲しくない!
そんな私が、行くわけない! 」
その時の自分の気持ち。
胡桃は昨夜、いや最近ずっと、祐一が昨晩感じていた気持ちを味わっていたんだと知った。
そして彼女自身は、だからこそそんなことはしなかった。
こんなにホッとしたことあったかと思った。
逆に自分のやった事を嫌と言うほど思い知った。
彼女の言葉は信じれた。
彼女のあつさを感じで、ゾクゾクした。
彼女に何の曇りもなくて、ただ愛しかった。
ボロボロの泣き顔も。
こんな状態で、嘘のかけらも見あたるわけがない。
思った通りの人だと、100%信じられる気がした。
そんな簡単な事だったんだ。
相手の嫌がる事をしない、
胡桃が愛しいから。
そうしたら。自然に、ただ普通に、単純に、浮気なんて起こるはずがなかった。
こんなにも、簡単なことだったんだ、馬鹿みたいに。
「もう行かない」
と祐一は胡桃に言った。
「もう2度と他の女と行かない」
それから彼女の顔を見て、
「約束だ」
とはっきり言った。
いくらでも約束したいと思った。
どんな風にでも束縛して、束縛されたいんだと知った。