訳アリなの、ごめんなさい
晩夏の風が、少しだけ開けた窓の隙間から入ってくる。


ソーサにカップを戻して、息をつく。

そろそろ眠ろうかしら。

そう思っていたところをカチリと何かが弾ける音が響いた。

見渡して音の出所を探る

なんとなく聞き覚えのあるその音を、どこで聞いたのだっけと首を傾げる。

もう一度カチリと音がして、それがバルコニーのある窓辺と気づいた。

あぁ、この音。

何となしに懐かしさが蘇って、つい吸い込まれるように窓辺に近づいた。

窓の外、正確にはバルコニーの下を見てみれば、そこには見慣れた男の姿があって

私が姿を現したことが意外だったのか、彼が驚いたようにこちらをみて、ホッとしたようにわずかに微笑んだ。


その顔がどこか懐かしいと思いながらも、なぜ彼が今ここにいるのだろうと、唖然としていると、彼は辺りを見回してこちらに向かって指を差した。

そちらへ行っていいか?

懐かしい、子供だけの暗号だ

慌てて首を振り、口元で指を一本立てて見せる。

人が居る!の意だ

リラがまだ前室に控えている。

彼に右手をかざして見せる

少し待って。


彼が大きくうなずきながら、辺りを見渡した。

なんだか昔が懐かしくてくすりと笑ってしまった。

この時間、中庭には所々に灯された電灯があるだけで、場所によってはその姿が分からぬほどの暗闇がある。

彼はそこに紛れるように姿を隠した。


急いで前室を見ると、リラが座って繕い物をしている。

「もう寝るわ。貴方も下がってね」
そう声をかければ、

「はい。おやすみなさいませ」
と彼女は礼を取った。

扉を閉めて、隣室の音を窺う。
しばらくするとリラが部屋を出て行く物音がしたので、もう一度扉を開けてみる。

もうリビングには誰もいなかった。
静かに扉を閉めて内鍵を閉める。

窓辺に戻ると、そこで私は驚愕する。

「どうやって!?」

「登った。こんなの造作ない」

すでにバルコニーの手すりの上に腰掛けて何でもないような顔をしている彼を見て、私は呆れたように息を吐く。


さすが特任騎士である。それ以前に先の戦争の功労者だ。身体能力は並ではないのだろう。


そう言えば、確かに彼は昔から身軽だったように思う。


「呆れた!こんな時間に紳士のなさることとは思えないわ」

ため息を吐いて腰に手を当てると、彼は肩を竦めてクスッと笑った。

「失礼、レディ。ここからは君の許可無しには入らないから安心してくれ」

暗に入れてくれと言っているのだ。
確かに、こんな目立つところにいたら、見張りの近衛に見つかるのは時間の問題だ。

「もう!どうぞお入りくださいな。侍女も下げてしまったからお茶も出せないけど」

「構わないよ」

部屋に招き入れて、窓を閉める。
人に見られていないと良いのだが。

「どうしたの?何かあったの?」

こんな時間に、妙齢の令嬢の部屋に男性が気安く入るのはマナー違反である。

しかも、彼自身が伯爵家の子息である。それを弁えていないわけがない。

見る人がみれば十分なスキャンダルとして扱われるだろう。


分かっていながら、呆れつつも彼を招き入れてしまったのは、自分ではあるのだが、一重に昔の懐かしさあってゆえなのかもしれない。


幼い頃、夏になると彼等兄弟はお母上と我が家に泊まりに来ることがあった。
何のことはない、我が家の裏には自然が溢れた森や川が豊かで、父が外交で留守にしているのを良いことに母達は話に花を咲かせ、子供たちは山野を駆け回って遊ぶのが恒例の行事だったのだ。

一日中遊びまわっても飽き足らず、夜も遅くまで遊びたがった私たちは、母や使用人の目を掻い潜って互いの部屋を行き来したものだ。

特にブラッドとは、チェスの勝負がなかなか付かず、どうしても早く決着を付けたくて、よくこうして彼が私の部屋に忍んでやってきては勝負の続きに興じることが多かった。


「この感覚、なんだか懐かしいな」

笑う彼に私も戯ける

「生憎折角来ていただいたのだけどチェス盤はないわよ」


「構わないよ。ここまで忍び込むだけで随分スリルだ。君の侍女、えっとリラだっけ?彼女に目の敵にされてるからね」


「ご自分の行いのせいでしょう?」

「まぁあれは不可抗力だって」

そこで、あの時の深い口づけを思い出して、私は一気に恥ずかしくなる。

彼も、思うところがあったらしく、口を噤んでしまった。

「それで、こんな時間に貴方がいらっしゃったご用件は?殿下と妃殿下になにか?」

とりあえず話を変えた。
実際こんな時間に彼が来るなど、よほどのことがあるのだろう。

「いや、お二人の事ではない。すまない。俺もいま任務時間外だから」


「あら、そうなの?制服姿だからてっきり」

「いや、色々あって、着替えるタイミングを逸してしまっただけなんだ。まぁここへ戻ってくるのには好都合だったけど」

「戻る?」

どこかへ行っていたというのか?

「話が長くなりそうだ、座りませんかレディ」

そう言われて私は初めて部屋を見渡す。

物音を避けて、無意識に奥の部屋に来てしまったが、ここはベッドルームだ。

すでに彼は何度かこの部屋に入っているにしても

男性をこんな時間にそんな部屋に入れてしまった自分の浅はかさを恥じるが、リビングでは物音でリラや外にいる近衛に気づかれてしまうかもしれない。

仕方なしにベッドサイドに置かれた椅子に掛ける。


互いに向かい合って座ると、彼が真剣な表情でこちらを見た。


その視線の色で、なんとなく彼がどの系統の話をしに来たか検討がついて、しまったなと思う。

「婚約破棄の話だが」

やはりその事だったのかと、慌てて彼の言葉を遮り、首を振る

「その話はもういいのよ」

彼から視線を逸らす。

「良くはない!なぜ君がそんな事を言うんだ」

立ち上がらんばかりに言う彼に口先に指を立てる

あまり大きな声を出せばいくら二間空いているとはいえ、気づかれてしまう。

「すまない」

思い至った彼は、再び座り直す。

「母に、婚約破棄の仔細を聞いたよ。ウェルシモンズ家からの要請だった。」

「そう」

思った以上にその言葉は冷めた色を含んでいた。

行き違いがあった事を知った時から、そうであろうと、思っていたのだ。

やはりあの人達の仕業であったのか。

「驚かないんだな」

「えぇまぁ、あり得る話だと。」

ため息まじりに頷く。

「アーシャ、一体なにがあったんだ?この前の発作とい、あいつへの怯え方といい」

彼に仔細を聞かれる日は、いずれあるとは思っていた。

本当であれば、誰でもなく彼にだけは知られたくなかった。


このまま会う事なく、互いに風の噂で存在を知るくらいの、そんな距離にいられたら良かったのに

こんな汚れた姿で彼の前に座り、さらに自身がどう汚れたかを説明させようとするなど。

神様はどこまでも私に無慈悲なのね

涙が溢れそうになるのをグッと力を入れて我慢する。


「色々あったのよ。でも大丈夫よ。もう終わったことだもの。思い出させないで頂戴」

否定しても、きっと彼は食い下がる。これ以上踏み込まないように牽制した。


目の前の彼の表情が、傷ついたように歪んだ。

「話しては、くれないか?」
懇願するような声音を振り払うように、私はゆっくりと首を振る。

貴方だから話したくないのだと言えたならどんなに楽だろうか。

お願いだから、貴方の中では昔の綺麗なままの私でいさせて欲しいと。


「そう、か」

落胆したような彼の言葉に、これで彼が諦めてくれたと淡い期待を持ったわたしは、彼の次の言葉に奈落に突き落とされる。


「実は今晩、ノードルフ侯爵邸でディナーをご馳走になってきたんだ。今はその帰りなんだ」


サァーッと血の気が一気に引いていくのが分かった。


一瞬で私の顔が青ざめたのが分かったのだろう。

あわてて彼が、身を乗り出して、私の冷たくなった手を握る。

「きみに許可なく聞いてしまった事は申し訳無く思う。だが、俺もご夫妻も君を奴らから護りたいんだ。」

なんてこと。

彼は知ってしまったというのか、、、汚らわしい私を。


咄嗟に彼から手を振り払う。


振り払われた彼は、悲しげにこちらを見つめている。


放っておいて!と叫び出しそうになるのをグッとお腹に力を入れて抑える。

同時に叔父と叔母にも怒りを感じた。なぜこの人に、この人にだけは知られたくなかったのに。


今このまま彼の目の前で消えてなくなりたい。涙がじわりと滲んできたが、もうそれを堪えられるほどの気力は残っていなかった。


「アーシャ」

「触らないで」
涙を拭おうとしたのか、伸びてきた彼の手を強い言葉で拒否する。

拒絶された、彼の手が宙を彷徨う。

「それは、できない」
静かに、噛み締めるようにブラッドは言葉を紡いだ。

彼の茶金の瞳が、強い意志を含んで私を捉えている。

彼はまだ諦める気がないらしい。

「お願い!放っておいて!」
すすり泣くように首を振って、逃げるように彼を拒絶する。


「そんな事できるわけがない。俺はもう2度と失いたくないんだアーシャ!」

彼が。私の手首を掴み、強い力で引き寄せられた。

抵抗の隙もなく、あっという間に私は、彼の胸の中に引き込まれてしまう。

「や、離して。お願い!」

ジタバタともがくが、鍛えている彼の腕の中では大した抵抗にもなっていないらしい。
ビクともしない。

しっかりと体をおさえ込まれてしまい、しばらくして私は抵抗するのを諦めて、ただただ彼の胸の中ですすり泣くしかなかった。
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