燕雀安んぞ天馬の志を知らんや。~天才外科医の純愛~

 その後、待合椅子の椅子に座りながら、なんとなくスマホを見ていた。
 2か月たった今も、スマホを見ても、やっぱり何も思い出せなかったけど、見るのが癖になっている。


(来月になれば、記憶のない3か月以上の月日が過ぎたことになるんだ……)


 ふと顔を上げると、見たことのある顔が目に入る。
 ロマナンさんより少し前、市役所の手続きを一緒にした男性だった。

 声をかけようと立ち上がり歩き出すと、その男性はそのまま反対方向へ行ってしまう。
 追いかけてまで声をかけるべきか考えていると、診察室への案内の名を呼ばれて、私は慌ててクルンと方向転換した。

 すると、ドン、とスーツを着た大柄の男性にぶつかってしまう。


 ぶつけた鼻をさすりながら、

「ごめんなさい。って、ぎゃっ! 熊ぁ!」

 目の前に巨大なクマが! と思ったけど、よくよく見てみれば、入院中に会った大熊さんだった。「……すみません。大丈夫ですか、大熊さん」


(しまった、熊って言っちゃった)

 恐る恐る大熊さんを見上げると、鋭い眼光でこちらを見ていた。
 今にも噛み殺されそうだ。


 ひ、と口から漏れ出て、思わず足を引く。

「大丈夫だ」

 しかし、大熊さんの声は前よりはイラついてはなかった。足もすっかり治っている。


「足、治ったんですね」
「あぁ」
「よかったです」


 本当によかった。前よりは怖くない。
 入院中は気が立つ人も多いから、きっとそうだったのかもしれない。

 その時、もう一度自分の名前を呼ぶ声がして、私は大熊さんにお辞儀をすると、診察室に向かった。


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