夕ご飯を一緒に 〜イケメン腹黒課長の策略〜
1.


 その人は、突然私の目の前に現れた。

 走ってフロアに飛び込んできた彼は、息を切らして、頬が上気している。

 切れ長の目、通った鼻筋、薄めの唇。ほっそりとした頬。
 さらさらの短髪で、スラッと立つ姿に、スーツがとても似合っている。
 どこからどう見ても、誰がどう見ても。
 正真正銘の『イケメン』だ。

 彼は、こちらを見て、優しい目で、笑った。

 心臓が、一度、大きく波打った。
 大き過ぎて、壊れたかと思うくらい。

「本田さん」
 私の横にいた人が、彼に呼ばれて振り向く。
「あれ久保田君、どうしたの?」
「来週から休みに入るって聞いて、挨拶しないとと思って」
 彼はそう言いながら、息を整えつつ、こちらに向かって歩いてくる。
「わざわざ来てくれたの?忙しいのに。ありがとう」
「いえ、来週は来られるかどうかわからないので今のうちにと思って。経過はいかがですか?」
「順調だよ、おかげさまで」
 私の横にいる本田さんは、大きなお腹に手を当てる。
「動きますか?」
「毎日ボッコボコに蹴ってくるよ。元気過ぎてかえって心配なくらい」
 本田さんの言葉に、彼は爽やかに笑った。
「元気でなによりですね」
「まあね、男の子だし」
「そうなんですか?」
「うん。この前の検診でばっちり見えちゃった」
 本田さんが、あははと笑う。
 そして『あ、そうだ』と私に向かって、彼を手で示した。
「初めてですよね?営業2課の課長の久保田君です。前はシステム課にいて、同じチームだったんですよ」
 彼は、その時初めて私を見た。
「久保田君、こちらは小平歩実さん。今週から来てもらってて、私の業務を引き継いでもらうの」
 私は立ち上がって頭を下げた。
「はじめまして、小平です。よろしくお願いします」
 彼も頭を下げる。
「久保田です。よろしくお願いします」
 顔を上げると、彼は爽やかに笑っていた。
 でも、なんだか遠く感じる。
 さっき本田さんに向けていた笑顔とは違う気がする。

 そりゃそうか。
 同じチームだった、いわば身内と、初めて会った外部の人間。
 態度が違って当然だ。

 さっき、こちらに向けられた笑顔は、当然ながら私ではなくて、本田さんに向けられたもの。
 いけないいけない。
 こうやってすぐ勘違いして舞い上がるととんでもないことになるのは、身をもって知っているんだから。自重しなくちゃ。

 自分の舞い上がりはさておき、久保田さんは本当に綺麗な顔をしている。
 さっき大きく波打った心臓は、小さくさざなみのように動き続けていた。

 好みだなあ。
 見れば見るほど、いい顔してる。

「もしかして同い年じゃないかな」
 本田さんの声で、現実に戻る。
 え、同い年?私とこの人が?
「そうなんですか?」
 生まれ年を言うと、彼も同じだと言った。
 同い年で課長って。しかも昇進したのは2年も前。
「我が社の歴史は全然長くないけど、史上最年少の課長なの。出世頭よねえ」
 本田さんが言うと、彼はちょっと照れたようにさわやかに笑った。
「またそうやって、からかうのやめてくださいよ。まだまだなんですから」
 ああ、その笑顔もサマになるなあ。
「そんなことないよ。頼りになるって須藤も言ってた」
「須藤さんがですか?」
 聞き返されると、本田さんは頷く。
 彼は、気を引き締めるように、少し唇に力を入れた。
「須藤さんにそう言われるのは嬉しいですね。頑張らないと」
 真剣な、男らしい表情だった。
 カッコいいなあ、と見とれていたら、彼の背後から同じチームの中村さんがやってきた。
「千波先輩、そろそろ休憩しないと、またうるさいのが来ますよ。あんたもさっさと仕事に戻んなさいよ」
 あんた、とは久保田さんのことらしい。本田さんへは優しかったのに、久保田さんにはキツキツだ。
 久保田さんは苦笑していた。

 時刻は午後3時。本田さんの休憩時間だ。千波先輩、とは本田さんのこと。
 本田は旧姓で、今は須藤千波さんというのだけど、旦那様も同じ社内にいるし、馴染みがあるから『本田さん』と呼ばれることの方が多いそうで、私もそう呼んでしまっている。

「小平さん、すみません。少し休憩させてください」
 申し訳なさそうな本田さんに、私は笑顔を返した。
「いえいえ、ゆっくり休んでください」

 妊娠中の本田さんは、昼休み以外に午後3時から休憩を取る。無理しないように、と会社からも言われているらしい。そうしないと、真面目で仕事好きの本田さんはすぐに根を詰めてしまうんだそうだ。

「ほんとすみません。じゃあ30分後に」
「その間に復習しておきます」
「真面目だなあ。小平さんも休んでいいんですからね」
 本田さんはよいしょと立ち上がる。今32週目って言ってたかな。お腹が重そうだ。
「休憩スペースですか?送りますよ」
「大袈裟だよ久保田君、社内だよ?」
「社内でも油断は禁物です。それに、これで本田さんに何かあったら須藤さんに殺されますから」
「はいはい、じゃあお願いします」
 本田さんと久保田さんは、笑いながらエレベーターの方に消えて行った。その後姿を中村さんと見送る。
「中村さんは、久保田さんと仲がいいんですか?」
 なんとなく聞いてみたら、中村さんが眉根を寄せた。
「私が久保田と仲がいい……?そんな風に見えましたか?」
「いえ、あの、中村さんは結構はっきりとした物言いでしたけど、久保田さんは笑ってらしたので……」
 中村さんの雰囲気に押されて、段々声が小さくなってしまう。
 仲が良いからこその、キツい口調だと思ったんだけど違うのかな。
「あー……まあ、気を遣わないでいいっていうのはありますけど。決して仲は良くありませんから、誤解しないでくださいね」
「はあ……」
 『決して』にもの凄く力を入れていた。
 苦笑いしていたら、中村さんの後ろのドアが開いた。
「あれ、もう行った?」
 入って来たのは、本田さんの旦那様、須藤さんだった。
 須藤さんは、同じ会社の違うチームに所属している。前は、今私がいるチームにいたらしい。
「行った。ついさっき」
 中村さんと須藤さんは同期だ。
 入社してしばらく同じチームにいたんだそうだ。中村さん曰く「私の千波先輩をあいつに奪われた」とのこと。
「そっか。ありがとう」
 須藤さんは私にも目礼して去っていった。
 須藤さんもなかなかのイケメンだ。背が高くて、眼鏡がよく似合ってる。久保田さんの入社前はダントツの人気だったらしい。
「ったく、いつまでも忠犬か」
 中村さんは、須藤さんにはかなり辛辣だ。でも、手厳しいけど、信頼していることは伝わってくる。
 チームリーダーの西谷さんは「中村さんは誰にでもツンケンしてるから」と言う。
 ただ、ツンケンしてるのは男性に対してだけで、女性には普通にしている。私はちょっと気に入ってもらえたらしく、友好的に接してくれている。
「噂通り、本当に奥様大好きなんですね」
「まあ、そこだけは間違いないです。結婚して結構経つのにデレッデレだし」
「わざわざ休憩したか確認しに来るんですもんね。心配なんだろうなあ」
「前の時のことがあるから余計うるさいって、千波先輩が言ってました」
 本田さんは、今回2人目の妊娠。前回4年前、1人目の時は、無理をして切迫早産になってしまい、入院したんだそうだ。
 今回は、旦那様が目を光らせているお陰でこの上なく順調、と本田さんは言っていた。
「あ、千波先輩の言った通り、小平さんも休憩してくださいね。最初から飛ばすと疲れちゃいますから」
 そう言って中村さんは笑顔を見せる。
 中村さんも、綺麗な顔をしている。久保田さんと並ぶと美男美女でお似合いだと思うんだけど、さっきの様子を見る限り、この2人に恋愛の要素はない。
「ありがとうございます。じゃあちょっとだけ休みます」
 私も笑顔で言うと、中村さんは頷いてデスクに戻って行った。



 ミーティング用のテーブルに向き直り、スマホを出す。
 待ち受け画面に、メッセージが来ていることが表示されていた。

 ーーー帰った

 10分前に、一言だけ。素っ気ないにも程がある。
 でも送ってくるだけいいか、と思い直す。

 ーーーおかえり。早かったね。

 返事はすぐに返ってきた。

 ーーーそっちは?

 『そっちは?』なんなのよ。
 様子を知りたいのか、帰る時間を知りたいのかわかんないじゃない。
 と思いつつ、多分こっちだろうという方を返信する。

 ーーー多分残業は無し。7時くらいには家に着くと思うよ。

 ーーーはい

 終了だ。
 素っ気ないのはいつものこと。
 普段通りであることに安心して、笑みがこぼれた。

「あの」
「はいいっ‼︎」
 すっかり油断していた。ビクッと背筋まで伸びる。
 振り返ると、目を丸くした久保田さんが立っていた。
「……すみません、びっくりさせちゃって」
「あっ、いえ、こちらこそすみません」
 あせって頭を下げる。
 久保田さんは気にする風でもなく、テーブルにあった小さいトートバッグを持った。
「本田さんが忘れたそうで」
「あ、はい……」
 小さく会釈して、久保田さんは去っていった。

 やっぱり、いい顔してる。

 目の保養には困らなそうだ、と思いながら、引き継ぎ資料を見直しにかかった。


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